「お前、先週何してたんだ? ゼミも休んだだろ」

 

 浅野は居酒屋のざわざわした店内にいた。ほとんど満席で、賑やかな声に溢れている。連を前に久しぶりに飲むビールはおいしいはずなのに、なぜかあまり減っていなかった。

 

「先週すか? ちょっと野暮用っていうか、俺も色々忙しいんすよ」

「限定クエストで人手足りなかったんだよ」

「うっわー、まじすか?」

 

 何をやっていたのか。まるで東京じゃないみたいな森の中にいた。

 だけどそのことは、なぜだか誰にも言えなかった。

 あれ以来、長塚からは何の連絡もなかった。もともと大学も違うから、そうしょっちゅう顔を合わせることはない。

 今頃、結婚式の準備でも進めているのだろうか。そう考えると胸の中に黒いもやもやしたものが広がる。

 

「今日、柏原さんはどうしてるんすか?」

 

 運ばれてきた料理の写真を撮りながら浅野は尋ねる。連の彼氏である柏原と飲んだのは一度きりだ。わりと堅苦しいタイプのようだった。

 

「なんで?」

 

連はけろりとした顔をしている。

 

「いや……何となく」

「バイトだろ」

「誘っといて何ですけど、柏原さん怒ったりしないんすか?」

 

 久しぶりに連と飲むのは楽しいはずだった。なのに胸の一部がどこかまだあの森の中にあるようで、落ち着かない。ふとしたときに思い出してしまう。長塚の体温だとか、木々のざわめきだとか、心地のいいあのベッドのことなんかを。

 

「だから、なんでだよ」

「だって、連さんのこと好きだった男と二人きりで夜のデートしてるんすよ」

「デート?」

 

 連は見下すように冷たい目で浅野を見て言う。

 

「いや、違いますね、すみません……」

 

 大学の授業を受け、ゲームをして、酒を飲んで遊んで、SNSを更新して……それが浅野にとっての日常のはずだった。そういう生活に浅野は戻ってきた。

 あの森の屋敷は、本来なら立ち入ることのなかった非日常だ。神隠しと同じ。もう自分は現実に戻ってきてしまったのだから、忘れないといけない。

 

「冗談だよ。だってお前、もう俺のことそういう意味では好きじゃないだろ」

「全然好きすよ、そりゃもう。俺と付き合いません?」

「はいはい」

 

 完全に相手にされていない。確かに、連が幼馴染みとうまくいっている今、ちょっかいをかけるつもりはない。

 それに、気になったきっかけは彼の顔が気に入ったことった。こうして一緒に過ごすようになって、今は内面も込みで友人として好きだ。でももともと、浅野にとって恋愛は顔に惚れて始まるものだった。だけど今、浅野はとにかく顔のいい男女に惹かれる自分の気持ちがよく思い出せなかった。

 

「いや、あの前にちろっと相談した友達の話なんすけど……」

「ああ、酔った勢いでヤったっていう」

「連さん!」

 

 声の大きさを気にすることもない連に、浅野の方がハラハラされせられてしまう。連は平然とビールを飲んでいる。

 

「で?」

「いや、なんか……結婚するらしいっす」

「お前と、じゃないよな」

「いやその線もなくはないかなっていうか、今のとこ結婚はまだできないですけど」

 

 言いながらむなしくなってくる。そもそも付き合いたいとさえ言われていない。ただ何度か寝たというだけの関係だ。

 

「それは辛いな」

 

 もっと冷たく突き放されるかと思っていたので、連の気遣いある言葉に浅野は驚く。

 

「何だよ」

「いや……『だからどうした』とか言われるかと思ってました」

「お前、俺のこと何だと思ってるんだよ」

 

 わかっている。連は口が悪いけれどむしろ、情に厚いタイプだ。人見知りはするけれど、人間嫌いというわけじゃない。何だかんだ、浅野のことも後輩として見捨てずにいてくれている。

 

「……俺、辛くても普通ですか」

 

 もともと長塚のことは振るつもりだったのだ。なのに、自分がこんな状況だからといって辛い気持ちになるのは間違いだと思っていた。

 

「だって、付き合ってたわけでもないんすよ」

 

 そもそもそれ以前の問題だった。ちゃんと話もしないままだ。

 

「何回か寝ただけで、ただの友達で」

「そりゃそうだろ」

 

 連は焼き鳥を口にしながら、あっさりと言った。

 

「だって、好きなんだろ?」

 

 ふいを突かれて声にならなかった。

 長塚と付き合うつもりなんてなかった。たとえ顔がいいのだとしても。なりゆきで寝てしまって、好きだと言われて戸惑った。でも、それだけのことのはずだった。

 今まで、いくらでも外見だけで好きになる相手を選んできた。内面を軽視している。人格を見ていない。そう言われる態度であることはわかっている。

 ……なんで、長塚のことは好きにならなかったのか。

 外面を見るより先に、友達になった。他の人間がやめろと言うようなときも、彼だけは浅野の恋をバカにしたりしなかった。黒澤から助けてくれたとき、車の中で、震える手を握ってくれた。大丈夫だ、と彼に言われるとそうだろうなと素直に思えた。

 

「わかりにくいけど、いいやつなんすよ」

「ああ」

 

 以前は、連に振られて長塚と飲みに行って、愚痴を話した。あの頃のことが懐かしい。なのに今は、連に長塚の愚痴を話している。すっかり状況は逆になってしまった。そう思うとおかしかった。

 

 ――俺は、長塚に振られたのか。

 

 こんなことになるはずじゃなかった。浅野にとっては美形のことを好きなのは当たり前で、誰に振られても、それほどショックではなかった。相手はモテる人間で、自分がろくに相手にされないことはわかっていたからだ。

 連に振られたときだって辛かったけれど、今ほどではない。とても手に入らないだろうものが、やっぱり手に入らないとしてもそれほど辛くはないのだ。

 

「お前が好きになるなら、そうなんだろ」

「……っ」

 

 自分が持っていると思っていたものが、なくなってしまう。あったはずのものが壊れる。その方がずっと辛い。

 胸がひりひりして、息をするたびに苦しい。いつもなら長塚に愚痴を言えたのに、もうできない。連と飲めるのだって嬉しいのに、やっぱり彼を長塚と比べてしまう。どうして今、目の前で呆れたような顔でほほ笑んでくれるのは長塚じゃないのだろう。

 彼に愚痴を言えるから、どれほど振られても怖くなかったのかもしれない。

 でももう、後はない。

 涙が浮かんできそうになって、浅野は必死にこらえた。さすがに一時は好きになった相手の前で、情けないところを見せたくはなかった。

 

「あ、今のもしかして、連さんのこと好きだったくらいなんだから見る目はあるって自画自賛すか?」

「お、新ステージ配信するらしいぞ」

 

 連は携帯をいじって、またゲームの話を始める。よく連とプレイしているオンラインゲームだが、最近いろいろと活発らしい。

 

「あー、いいっすね、俺なんかもう三日くらい引きこもってゲームしたい気分っす」

 

 今日は連がいてくれてよかった。友人というのは、本当にありがたいものだと、改めてそんなことを思ってしまった。

 

 ・

 

「浅野お前、最近いつ来てもいるなぁ」

「そうなんすよ、給料上げてください」

「そりゃ俺が上げてほしいわ」

 

眠たげな顔で塾の職員がコーヒーを淹れにいく。

 浅野は目一杯に予定を詰め込んだ。あの屋敷にいたときのことは、急な体調不良と説明している。結局数日のことだったので、授業にもバイトにも差し障りはなかった。

 やるべきゲームも、読みたい本も、行きたい集まりもたくさんある。

 

 ――俺にはあんなわけのわかんない奴らに関わってる暇はない。

 

「給料は上げてやれねぇけど、じゃあ今日は飲みに行くか!」

「あ、すみません俺今日これから予定あって」

「これからー? 彼女か?」

「いや、クラブ行くだけすよ。友達がDJしてるんで」

 

 東京の日々はせわしない。いくらでも時間を潰そうと思えば潰せる。

 久しぶりのイベントにはその友人の友人なども何人か集まっていて、始発までだらだら飲んだ。

 

「今度ゲリラライブやろうって言っててさ」

 

 浅野は聞くだけだけれど、音楽サークルの友人たちはDJをしたり音楽を作ったりしているやつも多い。今は誰でも配信ができるし、才能のあるやつはどんどん伸びて有名になっていった。

 

「浅野は今なにしてんの?」

「いやー、何も。バイト行ったり授業行ったりそれくらい」

 

久しぶりにタバコを吸った。

 高校に入ったときと、同じような疎外感を覚える。誰もがみんな、すごいやつに見えた。実際、それぞれに秀でたところがあって、頭角を現している。

 自分には何ができるんだろうと思う。何になりたいかと聞かれるときには、よく「金持ち」と答えていた。確かに商学部に進んだし、経済や商業の話を学ぶのは好きだ。でも起業するようなアイデアはない。

 トイレで携帯を確認していたら、母からメッセージが来ていることに気づいた。面倒なことだったら嫌だなと思う。

 

〝おばあちゃん、体調悪いらしいの。様子見に行ってくれない?〟

 

「あー」

 

 面倒だなと思った自分自身が嫌になる。祖母はもともと東京に住んでいて、小さい頃はよく泊めてもらっていたが、浅野自身が東京に引っ越してからはそんなに会っていない。

 フロアの音楽が小さく聞こえている。やることはいっぱいあって、友人と飲むのも話すのも楽しいはずだった。

 

「ばあちゃんち、行こうかな……」

 

 鏡にうつる自分自身は、手をかけた甲斐があって、美形ではないにしてもそれなりに垢抜けた都会の大学生に見えるはずだった。だけど不安げなただの子供のようでもある。

 長塚に話を聞いて欲しかった。

 彼は浅野のことを、絶対に否定したり、非難するようなことを言ったりはしなかった。いつもただ黙って話を聞いて、たまに茶化して、だけど「大丈夫だ」と言ってくれた。

 酔っているはずなのに全然楽しくない。全然忘れられていない。

 

「あーあ」

 

 もうとてもフロアに戻る気にはなれなかった。

 

 ・

 

「忙しいなら別によかったのに」

 

 そう言いつつも、祖母はあれこれ菓子を勧めてくる。どこからというくらい、あちこちから出てきた。

 

「大変なんでしょ? 頭いい大学なんだし」

「いや、別にそんなんでもないし……」

 

 祖母の家は都内にある。福井に住んでいた小さい頃から、何かと両親が東京に用事があるときなど、この家に泊まっていた。

 何となく見るともなしに庭を見る。猫の額とはよくいったもので、細長い小さなスペースに祖母は上手に木を植えている。

 体調が悪いと聞いたけれど、病気をしたりしたわけではないらしい。腰が悪いのは相変わらずのようだが、元気そうな様子にほっと息をつく。

 

「そういえば、成ちゃんの描いた絵が出てきたのよね」

 

 祖母はそう言って、クレヨンで描かれた何枚かの絵を差し出してきた。

 いかにも子供の絵という拙さだった。家とお姫様といった、どちらかといえば女の子の絵じゃないかというモチーフが多い。

 

「これ、俺が描いたやつ……?」

「そうよ。随分熱心に描いてたじゃない」

 

 まるで思い出せなかった。小さい頃、祖母の家に遊びに来たときに描いた絵なのだろう。昔も今も、あまり絵心はない。なんでこんな、お姫様なんかの絵を描いたのだろう。

 それから一時間ほど祖母の世間話に付き合って家を出た。絵は持っていくかと言われたけれど断る。自分が描いた絵だという気がしなかった。もしかしたら姉の絵かもしれない。兄と姉は同じ学年で、双子かと間違われるほど仲がよかった。

 ぼんやりと歩いているうちざわりと葉ずれの音が聞こえた気がした。

 こんなところにも、長塚の家のような自然が残っているのだなと思う。公園なのか、うっそうと茂った木々がかすかに見えた。

 

「あれ……?」

 

 近づいてみると、私有地らしく入り口はどこにも見当たらない。そこらの公園よりもずっと敷地は広いようだった。ほとんど森だ。

 浅野は植物の生態に詳しいわけではない。だけどその森は、長塚の家とよく似ているように見えた。近づいてみても、森の中に家があるのかは見えない。だけどやけに似ている。

 

「嘘だろ……?」

 

 そういえば小さい頃祖母の家に遊びに来たときには、よく言われた。

 ――森で遊んじゃ駄目だ、と。

 だけどそんな言いつけなど守らなかった。何度も繰り返し、森に遊びに行ったのだ。お姫様の絵を描いた。まるでそれまで思い出せなかった記憶が、するすると蘇ってくる。

 

〝どうしたの? 迷子?〟

 

「あ……」

 

 蘇ってきたのは、死体の様子だった。口から血が出ていた。お姫様。彼女が初恋だった。だけど怖かった。

 

 ――嘘をついてほしいわけじゃない。

 

 きれいな着物を着た、今まで見たことがないほどきれいな女の子だった。同い年だと聞いて嬉しかった。すぐに結婚してくれと言った。それが最近の自分のはやりの言葉だったから。

 

「あれは黒澤……じゃない、長塚か?」

 

 その頃は女装させられていたと長塚は言っていた。

 初恋の女の子。とびきりかわいくて、そのお母さんもきれいで……でも、今の今まで忘れていた。入ってはいけない森に入ったことも。そしてひどい目にあったのだ。ずきりともう治ったと思っていた、脇の痣のあたりが痛んだ。

 死体を見て、殴られて蹴られた。だから痛みと恐怖とともに、その記憶は封じ込めたのだ。

 

 ・

 

 小さい頃、祖母の家に何日か預けられていたことがある。

 今思えば、両親は仕事で忙しかったのだろう。夏休みなどには一週間くらい、そうして東京の祖母の家に滞在していた。

 ゲームはいとこが独占していて、そばで見ているだけだとつまらなかった。だから、家の周囲を探検した。入ってはいけないと言われている森にも、そのとき入った。

 森の中は入り組んでいて、うっそうと木々が茂っていた。進んでいった先で、とても美しい女性に出会った。線が細くて色が細くて、こんな人がこの世にいるのかと思った。

 

 〝ここに来てはいけないのよ〟

 

 毎回そう言われた。でも、追い返されることはなかった。いいにおいがして、近づくだけでどきどきした。

 彼女の子どもも、びっくりするほどかわいらしい女の子だった。最初に見たときはきれいな着物を着ていて、とても現実にこんな子どもがいるのだとは信じられなかった。浮世離れした異世界みたいな場所だった。

 

 〝どこから来たんだ?〟

 

 かけっこをしたり、格闘技ごっこをしたりして遊んだ。森の木の枝で作ったパチンコで、どんぐりを飛ばしてきたときには、木の枝で作った剣で応戦した。

 

 〝仲がいいのね。お友達ができてよかった〟

 

 二人で泥だらけになって戦っているのを見て、女の人は嬉しそうだった。

 浅野は女の子を、一緒に森の外で遊ぼうと誘った。だけど彼女は、外には出てはいけないのだと言った。女の人もそうだと言う。自分のお気に入りのおもちゃ屋や公園に彼女を連れて行きたかった。

 

 〝俺と結婚しようよ〟

 

 その頃祖母が見ていたドラマの影響もあってそう言った。とらわれのお姫様を、助け出す王子になったつもりだった。

 

 〝いいなずけがいるから〟

 〝そいつと結婚したいのか?〟

 

 女の子は黙って首を振った。

 

 〝したくない〟

 〝じゃあ俺と結婚しよう〟

 

 許嫁、という言葉もロマンチックに聞こえた。そのよくわからない男から、自分が彼女を奪うのだ。空想に浅野は浸り、彼女に指切りまでした。

 

 〝約束な〟

 〝うん、約束〟

 

 でもある日、女の人は動かなくなっていた。

 中庭に面した場所だった。きれいな顔が歪んで、口から血が出ていた。手は冷たくて、少女はその脇でがたがた震えていた。子供心にも、とんでもないことが起こったのだとわかった。

 人間が動かなくなっているのを……死体を見るのは初めてだった。

 

 ――入っちゃいけないよ。

 

 そう祖母に言われていたことを思い出した。言いつけを守らなかった自分が悪いのだ。

 

 〝な……どうしよう、救急車を〟

 〝帰れ〟

 

 彼女は厳しい顔で言った。

 

 〝大人がたくさん来る。ここに他の子どもがいることが知られたら、怒られる〟

 

 彼女は本気だった。確かにどうしてこんなに広い土地があるのに、近所の子どもが遊びに来たりしていないのか不思議だった。

 

 〝え……怒られるって〟

 〝帰れ! 二度と来るな!〟

 

 浅野は祖母の家に戻ろうとした。だけど、いつも開いているはずの正門は閉まっていて、どこからこの森を出ていいのかわからなかった。

 困っているうちにスーツを着た大人に捕まった。いろいろ怒鳴られたりされた気がするけれどもう覚えていない。気がつくと外の道路に寝ていて、足の骨が折れていた。

 何とか足を引きずりながら祖母の家に戻った。祖母には転んだと言った。その日のうちに両親が迎えに来て、福井に戻った。

 それからも何度か祖母の家には来ているが、森に足は向かなかった。

 記憶は恐怖とともにある。女の人はびっくりするほどきれいだったけれど、そのことが思い出せないくらい、その顔は苦悶に歪んでいた。

 目がかっと見開かれていて、口から血が出ていた。骨折をしたのは初めてで、足が治るまで何夜も夢にうなされた。

 ドブネズミみたいな子どもだな。

 何か盗ってないか調べろ。

 怖かった。またあのスーツの大人がやってきて、痛い目にあわせてくるのではないか。女の子とは連絡を取りたかったけれど、名前も知らなかった。携帯だって持っていない。

 やがて七歳だった浅野はその記憶を封じ込めて、森に行ったこと自体を忘れた。

 特別な記憶なんて、自分には何ひとつないのだと思っていた。でも違う。何もできなかった、助けられなかった。だからすべてを忘れてしまっただけだった。

 

 

 正門は閉まっていたし、警備員が立っていた。今も捕まったら蹴られたり殴られたりするのだろうか。それ以外の場所から森に入ろうとすると、思った以上にやっかいだった。あちこちに外から見えにくい場所に有刺鉄線が張られている。

 

「くそっ」

 

 数日前も、黒澤に助けられなかったら出るのも大変だったのかもしれない。まるで要塞のような場所だ。小さい頃の長塚は、ずっと母親とここで暮らしていて、ろくに外に出ることも許されなかったのだろう。

 それでも何とか森を抜け、屋敷が見えてくる。正面から入るのはさすがに憚られて、裏に回った。あのとき、長塚と栞の父親が話している声が聞こえた中庭が見える。

 

「あ……」

 

 池のそばに男が立っていた。スーツを着ているから、一瞬誰だかわからなかった。あちこちについた葉を払いながら、浅野は彼に近づいていく。

 

「浅野?」

 

 長塚は表情を変えることもなく言った。

 

「忘れ物か?」

 

 上背があって、悔しいくらいスーツが似合っている。高校は服装自由だったし、彼のこんなフォーマルな服装は初めて見た。むかつくけれど格好いい。こちらは祖母の家に来るだけのつもりだったから普通のシャツで、あちこち泥や葉っぱがついているというのに。

 

「ああ、そうだよ」

 

 浅野は土を踏んで歩き、長塚に近づく。屋敷の中にはこの前と違い、たくさんの人の気配があった。池に面した部屋をちらりと見ると、祭壇のような大仰な棚と、正装をした男女の姿が見えた。さすがに結婚式には見えないが、それに近い何かをやっているのかもしれない。

 

「……ごめん」

 

 浅野は長塚の腕を掴む。長塚はちょっと驚いたような顔をしたけれど、振り払うことはなかった。

 

「思い出した。俺……言ったわ、確かに。結婚してくれって」

 

 家の中の方から男の声がした。あのとき長塚にひどいことを言っていた男の声だった。

 

「でも、そんなことより俺は今のお前が好きだ」

 

 焦ったように浅野は言葉を続ける。そこまで話すことを考えていたわけではなかった。なのに自然と言葉が口をついていた。

 あのとき、お姫様だと思い自分が助けると決意した。なのに肝心な時には何もできなかった。あげくのはてに逃げて、すべてを忘れた。でもその後悔だけで言っているわけじゃない。何より今の長塚が好きで、大事だった。

 

「政孝?」

 

 窓から顔を出した男は、スーツの似合う渋い中年男性だった。やっぱり顔立ちが整っているのは血筋だろうか。彼が恐らく栞の父親であり、長塚の叔父なのだろう。

 

「逃げるぞ」

 

 浅野は掴んだ長塚の手を引く。

 

「何をしてるんだ、時間がないんだ、早く戻ってこい」

「うるせぇな! いいか、長塚は結婚なんてしない!」

 

 男が初めて存在に気づいたというように浅野の方を見る。怖い、と反射的に思った。体格のいい大人の男だし、きっとちっぽけな大学生ひとりに対して容赦なんてしないだろう。でも、今度こそ戦わないと、自分の存在意義自体がない気がする。

 

「こいつはあんたらの道具じゃない! 俺の大事な友達なんだよ! 好きにさせろ!」

 

 そう叫ぶように言って、長塚の手を引いた。男が唖然としている。

 反論を待たずにそのまま強引に長塚を連れ出す。彼は腕を引かれるまま黙ってついてきていた。

 そのまま森の中に入り込む。入ってきた場所から出ればいいだけなのだから、帰りは簡単だろうと思っていた。だけど焦って木々の間を歩いて行くのは思った以上に骨が折れた。

 あの男は追いかけてくるのだろうか。あの男でなくても、使用人もいる。とんでもないことになったらどうしたらいいのか。

 長塚は怖いぐらい何も言わなかった。腕をひかれたまま、黙ってついてくる。

 

「……って」

 

 慌てるあまりに木の根っこに足が引っかかる。だけど転ぶことはなかった。

 

「……ぶね」

 

 長塚の腕が、転びそうになった浅野の体を支えていた。顔を上げると長塚と目が合う。

 急に心臓がばくばくいいだすのがわかった。さっきまで、自分が緊張していることさえ自覚していなかった。今になって汗が噴き出てくる。勢いだけで行動してしまったけれど、とんでもないことをしてしまったのではないだろうか。

 

「友達か?」

 

 転びそうな体を支えたまま、長塚は腕を離そうとしなかった。

 

「おい」

「『大事な友達』」

「だって……それ以上のこと、あんなとこで言えないだろ」

「じゃあ今は」

 

 じっと顔を覗き込まれる。こういうときに美形はずるい。顔に熱が集まるのを感じる。

 

「……付き合えないって言ったのはお前だろ」

 

 そう言った一瞬後には、強く抱きしめられていた。息が苦しくなるくらいに。心臓の鼓動は鳴り止まない。まるで狂ってしまった機械みたいに早鐘を打ち続けている。

 でも、最初から長塚が言えばよかったのだ。付き合ってくれと。

 

「な、んだよ」

 

 温かい腕に抱きしめられているとほっと力が抜けていきそうになる。まだ文句を言いかけた口を塞がれる。

 

「ん……っ」

「なんだ、そんなに付き合ってくれって言われたかったのか?」

「ちが……っ」

「結婚はちゃんと破談にする。だから付き合ってくれ。一生大事にする」

 

 ――勝てるわけがない、幼少期に会っていたら。

 

 そうだ。勝てるわけがなかったのだ。足がまったく動かなかった。顔が熱いのがわかる。振られるのなら慣れている。でも、こんな風に正面から告白されるのは初めてで、どうしていいかわからない。

 彼とはキスもセックスもしたことがあるはずなのに。

 

「え、あ……」

 

 普段なら必要以上に動くはずの口が、まるで回らなかった。

 見慣れたはずの長塚の顔を直視できない。どうしてこう無駄に顔がいいのだろう。だから顔を伏せて長塚に抱きつくしかなかった。

 

「本当に?」

「ああ」

 

 そういうものなのだろうか。よくわからなかったけれど、再び顔を上げるとまたキスをされて思考がうやむやになる。

 背後の方から人の声が聞こえた気がした。いつまでもここでのんびりはしていられない。手のひらを握られて、そのまままた早足で歩き出す。浅野もぎゅっと手を握り返した。やっと思い出した。見つけたのだ。もう離したりしない。

 ……そう強く決意して。

 

 

 ・ ・ ・

 

 

「あんたのその爽やかぶった顔、吐き気がすんのよ」

 

 ホテルのラウンジで、二人はコーヒーを飲んでいた。隣のテーブルとは適度な距離が置かれ、会話する内容は聞こえない。デートかあるいは同伴前なのか着飾った女や、落ち着いた雰囲気の熟年夫婦などで席はぽつぽつと埋まっている。

 

「それはどうも」

 

 黒澤の尖った声に、長塚は怒るでもなく淡々と返す。千円以上するコーヒーがふたつ、テーブルの上には置かれていた。

 

「そっちこそ、浅野に変なこと吹き込まなかっただろうな」

「本気でやる気なら最初からやってる」

 

 もともといとこ同士の結婚を、黒澤の父親も望んでいたわけではない。栞にはもっと小さい頃から、別の男性が許嫁として決められていた。

 

「どうせ私はやれないってわかってるくせに」

 

 だが彼女がその男性を追い出してしまった。取引先の男性だったので、仕事もいくらかやりにくくなったと聞いている。だから父親は、栞に二度と結婚に対する拒否権を認めなかった。

 

「なんでこんなにあんたの思い通りにいくのよ……」

 

 栞はもともと長塚のことが嫌いだ。だから結婚なんて絶対に嫌だったけれど、彼自身がどうにかしてくれない限り、従うしかなかった。

 高校時代もそうだ。同じ学校なんて絶対に嫌だと言ったけれど、認められなかった。ましてや同じクラスなんてありえなかった。絶対に、血縁の人間だとばれたくなかった。

 

「別に偶然じゃない。当時描いてた絵も仕込んだからな」

 

 栞は淡々と語る長塚の顔をのぞき見る。確かに顔立ちは、美形が多い一族の中でも一、二を争うくらい整っている。母親の面影が強いのだ。

 だけど長塚政孝はもともと、表に出てくるはずではない子供だった。彼の母親は美人だったが、正妻ではなかった。よくある話だ。水商売上がりの女だった。

 結果的に正妻には子供ができなかった。だから父親は仕方なく、彼を正式な子供にした。

 長塚はまだ家を継いだわけではない。だけど誰もがそうするだろうと思っているし、実際他に男子はいないのでそうするしかないだろう。

 

「でも、それだって可能性を上げるぐらいのことしかできないでしょ」

「それならまた、別の方法を取るだけだからいいんだよ」

 

 栞はどこかで期待していたのかもしれない。この茶番が失敗に終わることを。もちろん、結婚がしたいわけではないからそれでは困るのだけれど。

 でも、この男が失敗するところを見てみたかった。

 栞は大きくため息をつく。どうせ、「大したことじゃない」とか言うに決まっているのだけれど。

 

「でも普通、ねじ曲げらんないことを運命っていうのよ」

「そんなわけのわからないもの、どうだっていい」

 

 感情の読めない声で長塚は言う。だけどやっぱり、栞には納得がいかなかった。失敗すればいいと思っていたのは、単に長塚が嫌いだからというだけではない。

 

「あいつは正しかった。ちゃんともう一度私を好きになったのに」

 

 ほんの少しだけ、運命とか、過去の出会いとかそういうものを信じてみたい気持ちが栞の中にもあった。

 浅野は確かに幼少期に、確かにこの家の子供と出会っている。勝気で元気な、顔立ちの整った子供と数日間遊び、子供らしい口約束で結婚しようと言った。

 その相手は栞だ。

 

「……でも、今は違う」

 

 コーヒーを飲みながら長塚は言う。

 栞も浅野も子供だった。遊びに来なくなった少年が、こちらには住んでいないことは栞にはすぐにわかった。子供同士の他愛ない口約束だ。だから、すぐに栞はどうでもいいと諦めた。もともと許嫁と結婚する以外の選択肢なんて自分にはないのだ。

 そりゃあ、ちょっとは期待した。物語の中みたいに誰かが自分を救いに来てくれるのではないかと。

 でもそんな都合のいい話はない。だからじきに、諦めた。

 七歳を過ぎて学校に通い始めて人間関係もあったし、ずっと浅野のことばかり考えていたわけじゃない。

 

「間違いなのに」

「間違いじゃない。運命っていうならこれが、正しい運命なんだよ」

 

 長塚とその母親は当時、この屋敷に軟禁されていた。まだ正妻も健在で権力が強く、妾とその子が立場を得てしまうことを恐れていたからだ。

 特に、長塚は存在自体を知られたくない子供だったから、家の中から出ることを禁じられていた。それは、七歳を過ぎてもそうだった。

 七歳までは神の子だからどうこう、というのは長塚が浅野に吹き込むために考えたほら話だ。長塚が女装をしていたことはない。黒澤も長塚も、家系の人間はみんなリアリストだ。金と契約書しか信じないし、必要があれば契約書だって裏切る。

 

 〝ようちえんってどんなとこ?〟

 〝子どもがね、いっぱいいるよ。先生がこわくてね〟

 

 栞はあの屋敷にはたまに親に連れてこられるだけだった。自分の部屋は持っているが、住んでいたことはない。

 小さい頃から、いとこの線の細い少年のことを、栞はかわいそうに思っていた。だから、外に出られない少年の代わりに、外であったことをなるべく詳しく話すようにしていた。浅野が来た頃はちょうど長期休暇で、栞も長く滞在していた。だから、彼との間にあったことも逐一話した。

 長塚は部屋の中からいつも、二人が遊ぶのを見ていたのだという。

 

 〝僕もあそびたい〟

 〝外に出したらおばさまに叱られるから……でね、それでね、私が親に決められた結婚なんて嫌だって言ったらそいつね、結婚しようって〟

 

 当時の長塚は栞と同い年なのに、色白でか細かった。体調を崩しがちで、頭もあまりよくないのだろうと栞は思っていた。いつも熱心に栞の話を聞いていた子供が、内心では何を考えていたのか、わかっていなかった。

 

 〝いいなずけがいるのなんて関係ない、連れ出してやる、って〟

 

 数年後、再会したとき長塚はまるで別人のようだった。背が伸びて男らしくなり、表情にも仕草にも臆したところがなかった。でも、目だけはあの頃のまま変わっていなかった。

 

「でも、それだけじゃない。あんなやつ……他にいくらだってまともな男はいるし、最初から告白するなりすればよかったでしょ」

 

 長塚はその気になれば、どんな相手だって手に入れることができるだろう。もっととびきりの美女だって、美男だっていくらでも選べる。

 浅野がこれほど時間をかけて、こだわるような相手だとは思えなかった。特別な才能があるわけでもなく、容貌も考え方も平凡で、これといった特徴のない男だ。むしろ栞はかすかに彼のことを恨んでいる。口先だけの軽い男だ。

 確かに、高校で再会したときにもう一度自分を好きになったと言ってきて、ときめかなかったといったら嘘だ。一瞬、運命を信じそうになった。

 でも、浅野は小さい頃の告白のことは思い出さなかった。ただ単に、黒澤の顔が好きだからと言い放った。

 長塚の母親の死は彼の中でトラウマになっていた。それゆえに記憶の整合性がつかず、理由がつかない好意を「顔が好き」という言葉に置き換えただけなのかもしれない。でも、栞はそんなことを言われるのは嫌だった。

 

「そんなことしても意味がない。あいつ自身が、小さい頃に会って自分が告白した相手だったんなら他の誰とも全然違う、特別だ、って思わなくちゃいけないんだよ」

 

 栞と長塚との結婚は、長塚が手を回してくれたおかげで破談になった。彼はもともと、既に家業の深いところまでを掌握している。最初から、彼にはできたはずなのだ。

 でも彼は待った。

 長塚こそが自分の運命の相手だと……間違った記憶を、浅野が思い出すまで。

 

「めんどくさい……無理やりにでも自分のものにすればいいじゃない」

「そんなことしても意味ないだろ」

 

 呆れたように長塚は笑う。別にそれが悪いことだからじゃなく、単に意味がないからやらないだけなのだ。それがもし必要な手段だったら、彼はそのくらい躊躇なくやるだろう。

 さっきから背後の方に座っているマダムが、ちらちら彼の方に目をやっていることには気づいている。その気になれば誰だって落とせるだろうに、彼はそうしない。

 たぶん今回のことが失敗しても、長塚はもっと別の手段を取っただろう。彼にとっては一度や二度の失敗も、数年くらい棒に振ろうと、本気でどうだっていいのだ。栞と違い、諦めるという発想がそもそも彼にはない。

 

「自分から俺を選んでほしいんだよ。そうじゃないと、手に入れたことにならない」

 

 幼少期に出会っていたこと。特別な物語があること。確かにそれは、新しい出会いよりも強固に感じられるだろう。

 でも実際には、浅野と長塚は幼少期には出会っていない。

 顔を合わせていないし、挨拶さえしていない。窓の外をまぶしそうに見つめていた子どもの横顔を栞はかすかに思い出す。

 

「単に付き合うとかセックスするとかじゃない。他の誰かとは圧倒的に違う、運命の相手だと思って、俺を選ばなきゃいけない」

 

 栞は思わずため息をつく。小さい頃に閉じ込められていたせいなのだろうか。このいとこの性格はひどく歪んでいる。

 もちろん表面上はそんなことをおくびにも出さない。だけど高校生の頃から、その素顔のうさんくささを栞は知っていた。だいたい、高校で三人とも同じクラスだったのも偶然とは思えない。だから嫌だったのだ。

 

「まぁいいけどね。私は最初にがっつり蹴ってやったし」

「あれはやりすぎだ」

「あれくらい当然でしょ」

「栞」

 

 低い声で呼ばれると、つい栞はびくりとしてしまう。長塚の方が本家の血を引いているとはいえ、立場はそう変わらないし同い年のはずだ。

 家業は不動産関連で利益を上げている。あまりクリーンではない事業も多く、ずっと栞は嫌だった。だからなるべく距離を置いてきた。だが長塚は小さい頃から家業にどっぷり浸かっている。そのせいなのか、たまに栞は本気でこのいとこが怖い。

 

「次にやったらただじゃおかない」

 

 穏やかにさえ見える顔で、子供に言い聞かせるように長塚は言う。

 

「……子供じゃないんだからわかってるわよ」

 

 ともあれ、これで結婚だ何だという話から解放された。喜んでもいいはずなのに、栞の気持ちはあまり晴れなかった。

 別に、長塚は強引なことをしたわけではない。浅野は幼少期に自分が好きだった相手のことを思い出した。それは誤解なのだが、きっと解けないだろうし、解かせないはずだ。

 自分が忘れていたという罪悪感もあって、きっと浅野は今度こそ、自分の過去の約束を大事にするだろう。自分で選んだのだと信じて。

 何だかんだ、屋敷に滞在していたときも楽しくベッドを共にしていたようだし。

 やっぱり何だかちょっと腹が立つ。もう二、三度蹴ってやってもよかったかもしれない。

 

「あんたと話してると、ほんとに運命なんてないんだなって思う」

 

 もしあのとき教室で、浅野が本当のことを思い出していたら。考えても仕方がないことを栞は考えてしまう。

 彼は自分をさらってくれただろうか。

 

「あるだろ」

 

 ……何だかんだ、このいとこに邪魔されてそれはそれで失敗していそうな気がする。リアルに想像できてしまうのがまた嫌だった。

 

「運命ぐらい、作ればいいんだよ」

 

 そう言って長塚は微笑んだ。その顔が普段より少し柔らかに感じられた気がして、一瞬栞は息を飲む。どう考えても錯覚だ。

 でももしかしたらこの男だって、ずっと欲しかったものを手に入れたら少しは優しい気持ちになったりするのかもしれない。あまり信じられないけれど。

 

「あんたのその爽やかぶった顔は、大嫌いだって言ってんでしょ」

 

 一体、自分の本当の運命の相手はどこにいるのだろう。苦い気持ちで、栞は残りのコーヒーを飲み干した。