※welcaさん主催のμ's・真夜中をテーマにした合同誌への寄稿の再録です。
「ねぇ、にこちゃん、いつか最高のアイドルになってね」
「え?」
他愛ない日常的なやりとりだった。少なくともそのとき、私はそう思っていた。
「この世で一番最高の、とびっきりのアイドルになって」
「何言ってるの?」
「約束して」
「何よそれ、当たり前じゃない。誰に向かって言ってるの――」
「矢澤にこ、よ」
そう言って真姫ちゃんは笑った。私は一瞬、言葉を失う。真姫ちゃんはもともと端正な顔立ちをしているけれど、その笑顔は格別だった。
「当たり前のことなんだから、約束してよ」
真姫ちゃんは私に向かって小指を差し出す。女の子らしいお遊びなんだろうと私は思った。約束とか夢とか恋とか、女の子たちはみんなそういう言葉が大好きだ。
きらきらした、実体のない言葉。
「いいわよ」
私は深く考えることもなく、笑って小指を差し出した。ふたりの指が絡まる。
真姫ちゃんはまた、にっこりと笑った。
・
ぽつぽつとテレビに出させてもらうようになった頃から、よく眠れない日が増えた。そのくせ朝は、五時にきっかり目が覚める。だけどだるくて気力が出なくて、結局は家を出るぎりぎりの時間まで、布団の中でごろごろとしてしまう。
仕事は体力が勝負だ。遠い現場に朝早くから行くなんてしょっちゅうだし、ライブや撮影が夜遅くまでかかることもざらだ。ファンの前ではもちろんずっと笑顔でいないといけない。最初から覚悟の上だし、ちゃんとできると思っていた。
「たまには甘いものでも食べに行かない?」
真姫ちゃんが誘ってきたのは、そんなときだった。正直なところ、少し面倒だなとも思った。だけど断るまでの言い訳も思い浮かばず、私は了承していた。
私が高校を卒業した後、真姫ちゃんとは正式に付き合うようになった。真姫ちゃんが好きで、そばにいてほしかった私から告白をした。断られることはないだろうという算段はあった。
真姫ちゃんは顔を真っ赤にして、「いいわよ」と言った。今思い返しても顔がにやけてくるくらい、かわいかった。
「にこちゃん……もしかして最近、調子悪い?」
そのかわいい恋人が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「え? 何よ、にこは全然、絶好調」
甘い甘いクリームパフェを前に、私は精一杯笑顔を作ってみせる。ごまかせるという自信だってそれなりにあった。私は嘘が、うまいのだ。
真姫ちゃんだって暇じゃない。家業の病院を継ぐため、真姫ちゃんは医学部に入学した。傍から見ているだけでも、医学部というのはとんでもないところだった。分厚い教科書や辞典、英語の文献、実習にレポート――真姫ちゃんは淡々とこなしているように見えたけれど、どう考えてもそれは大変な量だった。
「ねぇ、にこちゃん。無理しないで」
「うん……」
真姫ちゃんが心から言ってくれていることがわかるから、私もつい、ほろりときてしまう。
これまで弱音なんて吐くことは恥ずかしいと思っていた。苦しくても、辛くても、いつだってちゃんと目標はあったし、そのためならば我慢できた。
それは変わらない。
私はアイドルになる。
そうなのだけれど――それでも、疲れてしまうときはある。
私にとって、真姫ちゃんは初めての恋人だった。もちろんμ’sのみんなだって、かけがえのない友人だ。だけど恋人との関係というのは、それとは全然違う。
夏には花火大会にでかけ、秋は紅葉を見にでかけ、なんでもない週末には一緒にアイドルのライブや映画なんかを観に行った。そうやって、ふたりきりの時間が積み重なっていった。
「好き、真姫ちゃん」
「な、なによ」
「世界一好き」
心からの素直な言葉だった。もう何度も口にしている。
だけど私がそれを言うと、真姫ちゃんは決まって顔を真っ赤にして、声にならない声で小さくうめくのだった。
真姫ちゃんといるとほっとした。がむしゃらでなくても、必死にならなくても、無理に笑わなくても、真姫ちゃんは私を受け入れてくれる。私は真姫ちゃんに向き直って、少し笑った。
「……もういいのかも」
それは言うなれば、最上級の愛の言葉のつもりだった。
「真姫ちゃんがいれば」
アイドルを目指しているのだ、と言ったら、親戚からは笑われた。ネットにはあることないこと書かれている。
まだ見習いのアイドルを好んで見に来ているような人たちの中にも、色々な種類がいる。熱心なファンは時にアンチにもなる。私は自分の名前をもう検索できない。ブスだと罵られるくらいならばまだマシだ。業界人の中には、挨拶みたいに尻を触ってくる人もいまだにいる。
アイドルというのは、商売のための道具でもある。
今更、カマトトぶるつもりなんてない。この世界がきれいごとばっかりじゃないことくらいわかっている。だけどそれでも、まだ二十歳そこそこの私には、つらかった。
「何よ、それ」
真姫ちゃんは笑った。なんで彼女が笑ったのか、よくわからなかった。私の恋人はきれいだ。背筋がぴんと伸びていて、睨みつけてくるとちょっと怖い。だけど、とびきり優しいことも私はよく知っている。
それは、とてもきれいな笑顔だった。
「冗談よ、本気にしないで」
私は慌てて付け加える。
真姫ちゃんはそれ以上何も言わなかった。てっきり、慰めるようなことを言ってくれるだろうと期待していた私は、少しがっかりする。
パフェのアイスが溶けていく。一口目はおいしかったのに、甘ったるいばかりのそれに、もう手をつける気にはなれなかった。
・
マネージャーが連続した休みを入れてくれた。後から思えばそれは、マネージャーなりの、疲れていた私への配慮だったのだろう。
私は真姫ちゃんを旅行に誘ったけれど、真姫ちゃんは大事な試験の前なのでごめんなさいと言って謝った。
真姫ちゃんが忙しいことはわかっている。試験より私を優先してほしいなんて言えない。
「仕方ないわね、また今後行きましょ」
ものわかりのいいふりで答えながら、私は不安だった。
一人で過ごす休みが怖かった。大好きなアイドルのDVDも、今は見ようという気分になれない。自分がどれほど彼女たちと違うか、意識しないではいられないから。
アイドルに憧れ始めたころは、ひとりきりでも、何時間でも、ずっと見ていられた。なのに彼女たちの輝きは、今の自分にとっては毒だった。好きなのに、不安が頭をもたげて見ていられない。
無理やり布団に入ってもまだ時間は早すぎて、到底眠ることなんてできなかった。
「真姫ちゃん……」
なんで一緒にいてくれないのかと、真姫ちゃんを恨むような気持ちで私は休日を過ごした。
その日以降も、真姫ちゃんとはすれ違いの日々が続いた。せめて声が聞きたいと夜ごとに私は電話をしたけれど、真姫ちゃんが出てくれることはまれだった。
「もしもし真姫ちゃん?」
私はよく、ベランダに出て真姫ちゃんに電話をかけた。前のアパートの部屋に、いくつか明かりがついているのが見える。時間はいつも、真夜中に近いような夜遅くだった。
「……こんばんは、何か用?」
真姫ちゃんは夜更かしだ。勉強があるから仕方ないのだろうが、日付を越えるより前に眠ることなんてないんじゃないかと思う。
「えっと……用っていうか、今何してるのかなぁって」
「勉強してるわ」
真姫ちゃんは、取り付く島もない声で言った。
「何それ。邪魔して悪かったわね。用がないと私は電話をかけちゃいけないの?」
真姫ちゃんは一瞬、困ったように沈黙する。
「……そんなこと、ないけど」
それから少し弱々しい声で言った。
「ごめんなさい、にこちゃん。最近、色々考えてて……」
「真姫ちゃんがお忙しいのは知ってるわよ」
「何よ、その言い方」
「迷惑なら切るわ」
「にこちゃん……!」
真姫ちゃんの焦った声に、溜飲を下げて電話を切って、私は真っ暗な空を見上げる。空は曇っていて、星はひとつも見えなかった。
くだらない見栄で電話を切ってしまったことを、私はもう後悔していた。真姫ちゃんからかけ直してくれればいいのにと思うけれど、携帯電話の画面には何も変化がない。
どうしてだろう。恋人同士だったら、毎日電話するのが普通じゃないの?
もっと会いたいと思ってくれて普通じゃないの?
私は毎日真姫ちゃんに会いたかった。もっと好きだと言ってほしかった、今のままの私を。私も好きだと伝えたかった。幸せな二人きりの時間のことばかり何度も思い返した。
一人きりのじりじりするような日々が続いた。私はやっぱり疲れて、身体のだるさを持て余していた。
その週末、私はやっと真姫ちゃんに会った。
久しぶりに会えたというのに、会話は弾まなかった。おいしいと評判のレストランなのに、味はよくわからなかった。
「テストはどうだった?」
「……まぁ、悪くはなかったわ」
真姫ちゃんはあっさりと言う。
「忙しいのね」
「何よ、嫌味?」
真姫ちゃんが好きという気持ちではち切れそうなのに、私はまるでそれを言葉にできなかった。好きなのに、話をしていると苛々する。真姫ちゃんも何か言いたげなのに、変に口ごもってばかりいた。
結局、気まずい食事をした後すぐに帰ることになった。
真姫ちゃんは帰り際、ぽつりと言った。
「ねぇ、約束覚えてる?」
「約束……?」
雨が降り出しそうな気配があった。空は真っ暗だ。
こんどの休みにどこかに行こうという話でもしていただろうか。すぐには思い浮かばなくて、私は頭を巡らせる。
「いいの」
だけどそれを真姫ちゃんの言葉が遮った。
「何よ」
「さよなら」
単にそこが駅だから、別の方向に向かう真姫ちゃんがそう言っただけなのはわかっていたのに、その言葉はいやに寂しく響いた。行かないで、と言いたかった。ねぇ、まだそんなに忙しいの? 試験は終わったんじゃないの? だったら、うちで一緒に過ごさない?
喉元まで出かかった言葉を私は飲み込む。
「……気をつけてね」
代わりにそう言って、笑顔を浮かべた。どんなにつらいときでもせめて笑っていよう。それは私が心に決めたことのひとつだった。私の憧れたアイドルたちはみんな、きらきらと笑みを振りまいていたから。どんなときだって。
私の顔を見て、真姫ちゃんはなぜか一瞬、泣きそうに顔を歪めたように見えた。
ぽつりぽつりと、雨が降り始めていた。
大事な話があるのと言われた時に、もう予感はあった気がする。
付き合っている間、私たちは様々な店に行った。チェーン店の居酒屋から、高級なフレンチ。駅前のカフェや、カウンターだけの小料理屋まで。だけどその話をした場所は、住宅街にある昔ながらの喫茶店だった。
「……別れましょう」
薄々わかっていたことでも、改めて言葉にされると辛かった。
「なんで」
おとなしく納得するなんて、到底私にはできなかった。
「にこも悪かったわよ、ここのところ、うまくいってなかったのはわかってる。でも、ちゃんと二人で考えていけば……」
「無理なの」
真姫ちゃんはコーヒーをブラックで飲んでいた。お客さんに応じて、似合いのティーカップとソーサーを選んでくれる店だった。真姫ちゃんの前に置かれていたのは、鮮やかなルビー色と金の縁取りをした豪華な一脚だった。
真姫ちゃんは携帯電話をカバンから取り出す。表示された画面には、真姫ちゃんと顔を寄せ合う年上の男の人がうつっていた。
「……何、これ」
真姫ちゃんも照れたような様子だけれど、まんざらでもなさそうに見える。背景からして、どこかの遊園地のようだった。どこから見てもデート中のカップルのツーショットだ。
「将来を約束した人よ」
「は?」
私は言葉を失った。将来? 真姫ちゃんと私は付き合っていたはずだ。好きあっている、恋人同士だったはずだ。たとえ今日別れ話をしているとはいえ……そこまで考えて、私は気づく。
だからこそ、彼女は別れ話をしているのだ。別に男がいるから、私との関係は切りたいのだ。じわじわと体温が下がっていくような感じがする。周りの音が聞こえなくなって、だけど真姫ちゃんの声ばかりクリアに耳に届く。
「もともと家の都合で……許嫁っていうのかしら。私も最初はそんなの嫌だって思ってたんだけど」
意識が身体からふうっと遠のくみたいに感じられた。
「それで暇つぶしに私と付き合ってみたってわけ?」
自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。
「で、私にうんざりしたからやっぱりそいつの方がいいやって? あんた私をバカにしてんの?」
真姫ちゃんは私の罵倒にも、動揺を見せなかった。じっと私の方を見て、言った。
「にこちゃん、私を忘れないで」
「何言ってんの!?」
私は思わずテーブルを叩いてしまった。陶器ががしゃりと鳴る。それ以上私が何か言い返そうとする前に、真姫ちゃんは席を立った。きっぱりとした態度だった。
「ま、待ちなさいよ」
私が好きになった彼女そのままの、すっと伸びた姿勢と表情。真姫ちゃんはきれいだ。頑固で強情で、いつも毅然として立っている。それを見て、わかってしまった。真姫ちゃんは意見を変えたりはしない。
私たちは、これで終わりだ。
泣こうがすがろうが、私たちにはもうこの先なんてないのだ。
「真姫ちゃん」
「今までありがとう」
真姫ちゃんはそれだけ言って、店を出て行った。
私は呆然と再び席に座る。私の目の前には、飲み差しのロイヤルミルクティーだけが残っていた。私に用意されたティーカップとソーサーは真っ白なもので、浮き上がるように女性や蔦が加工されていた。
私はそっとそれを口元に運ぶ。こんなときでも、ぬるくなっていても、ミルクティーはおいしかった。
それきり真姫ちゃんは私の前に姿を現さなくなった。
◇
長い暗闇の中を歩いているみたいだった。
「……にこ、体調はどう?」
「絶好調」
控室は狭く暗かった。しかも、前に出場する別のアイドルと同室だ。仕方がない。今の私はまだ個室を与えてもらえるような立場じゃない。
「まったく、ライブを増やしたいって言うからそのとおりにしたけど……無理が来てるんじゃない? 大丈夫?」
私は鏡越しにマネージャーにちらと目をやる。
「評判は」
「え?」
「評判はどう?」
マネージャーは椅子に座る私の背後に立ち、肩にぽんと手を置いた。
「大好評よ」
当然だ。ライブの回数はやみくもに増やしたわけじゃない。マネージャーと一緒に、脳みそから血が出そうなくらい考えに考えて、戦略を練った。単にライブに出るだけじゃなく、複数の媒体で宣伝して、SNSの活用も仕掛けた。
「今までより女性ファンも特に増えてる。この間のダンスコンテストに出たのもよかったわね」
「……そう。ありがとう」
「こちらこそ。私は仕事を取ってくることしかできないもの。にこの完璧なパフォーマンスがあってこそよ」
そんなことは当たり前だ。
「もちろん、わかってるわ」
過酷な体力づくりでも何でもやる。歌はトレーナーに付き、あらゆるトップスターたちのライブの研究をした。ライバルになりそうなアイドルたちの情報にも常にアンテナを張った。使える時間は朝から晩まで、一分も余さず使った。
やれることは何でもやる。私は何もせずに圧倒的に誰もを納得させられるような、才能に溢れたアイドルじゃない。アイドル志望のちょっとかわいい女の子なんていくらでもいる。そこから抜きん出るためには、並大抵の努力じゃ足りない。
頭を振り絞って、笑顔を振りまいて、もう無理だというところまで這っていって、更になお一歩踏み出さないといけない。
だけど、私にはそれができる。
「私を誰だと思ってるの」
「矢澤にこ、でしょ」
私はもう恋人は作らない。
真姫ちゃんとの恋愛は、彼女の浮気という最悪な形で終わった。今頃きっと、あの写真の男と付き合っているのだろう。
”にこちゃん、私を忘れないで”
あんなひどい別れ方をされたら、忘れようにも忘れられるわけがない。今も思い返すたびに、ずきずきと胸の奥が痛む。呼吸のたびにひりひりと傷がその存在を主張する。
真姫ちゃんと交わしたたくさんの言葉。一緒に見たたくさんのもの。きっと真姫ちゃんは忘れているだろう、つまらない”約束”。
――大好きだった。
私はもうきっと、真姫ちゃん以上に誰かを好きになったりはしない。
「そうよ」
私はその分、お客さんを愛する。泥濘の日々から一筋の光を求めるように、会場にやってくるお客さんたちに、完璧な輝きを見せる。魂の奥底まで照らしてみせる。そのためになら私はどこまででも孤独になって構わない。
私はマネジャーに向かって、格別の笑みを浮かべて言う。
「私は矢澤にこ――この世で一番最高の、とびっきりのアイドルよ」
・
「真姫」
図書館を出たところで、誰かに声をかけられた。外はもうとっぷりと暗くなっている。こんな時間まで勉強しても、試験範囲はまだ終らない。
だけど向いているのだと思う。勉強はそれほど苦にならないし、良い点を取るのは面白い。
「絵里……」
会うのたはたぶん、ほとんど一年ぶりだった。比較的近くにある大学に進学したことは聞いていたが、まさか待ち伏せされるとは思わなかった。
「連絡、無視しないでよね」
そういえばこの間、絵里から話がしたいというようなメールをもらっていた。話の内容に想像がついたので、返信はしなかった。
「ごめんなさい、試験期間で……」
「そう言うだろうとは思ってたわ」
どうせ見ぬかれているのだろうと、私も思っていた。だからこそ、メールに返信はしなかったのだ。絵里のことが嫌いなわけではないけれど、あの人の話はしたくなかった。
「にこと連絡、取ってる?」
だけど、絵里はずばりとその名前を出す。
「いいえ」
私はなるべく気のない態度で冷たく言う。
「会ってないの?」
「知らなかった? 別れたのよ、私たち」
にこちゃんと付き合っている時、そのことを積極的に言いふらしたりはしなかった。だけどごく親しい仲間には、それとなく知らせた。彼女たちはみな祝福してくれた。
今となっては懐かしい、夢の中みたいな昔のことだ。
「そう」
絵里はきっと予想していたのだろう。
「この間、倒れたのよ、にこ」
「……へぇ」
さすがに一瞬、私は動揺した。
「点滴をして、すぐに仕事に戻ったらしいわ」
にこちゃんの仕事ぶりについては伝え聞いていた。同じ学園の、同じスクールアイドル出身者の活躍となれば、どうしたって色んな人の話題に登る。だけどどんな人との会話でも、私は「よく知らない」と言い続けた。
矢澤さんは確かに同じグループにいたけど……そんなに話したことないし、よく知らないの。
にこちゃんとのことは、誰かに軽々しく話せるようなものじゃなかった。
「それを私に言ってどうするの?」
倒れて弱気になったとしても、今のにこちゃんが、私に連絡を取ってくれなんて頼んだはずがない。きっと絵里が勝手に気を回しておせっかいをしているのだ。私たちには、そんなこともういらないのに。
「ねぇ、一緒に会いに行かない?」
絵里はなだめるような口調で言った。
「ほんのちょっと顔を見るだけでも」
「いいえ」
私はきっぱりと言う。
「行かないわ」
「どうして……! にこだって、本当はあなたに会いたいはずよ……!」
「そうね」
「わかっているなら、なんで……」
私は今だってずっと、にこちゃんに会いたい。会いたくてたまらない。にこちゃんと自由に会いに行ける絵里が羨ましい。
本当は聞きたい。最後ににこちゃんに会ったのはいつか。どんな様子だったのか。どんな風に暮らしているのか。だけど私は、絶対にそれを口にしない。
「あの人は選ばれているから」
「え?」
「あの人が『選んだ』のかしらね、どっちだっていいことだけど」
風は少し冷たかった。駅まで歩かない、と私は絵里を誘う。絵里は不満そうに、だけど私の後をついてくる。
あたりはすっかり暗い。朝から図書館にこもっていた私は、ほとんど太陽を見ずに一日を終えてしまった。空は曇り気味だったが、わずかに星が見えていた。
「……真姫?」
にこちゃんは強い人だ。だけど同時に、折れやすく危うい、ごく普通の一人の女の子でもある。彼女との恋人関係は楽しかった。……あまりにも、楽しかった。
”真姫ちゃんがいればいい”
きっと深く考えてもいない言葉だったのだろう。だけどそれは私にとって、アイドル矢澤にこの敗北宣言のように聞こえた。そんなことを彼女に言わせてはいけなかった。
「私がそばにいちゃ、いけないのよ」
私なんかに縋らせてはあげない。
誰かと過ごす朝を知った分だけずっと、にこちゃんは孤独になっただろう。私と出会う前より、もっともっと深い孤独を味わっただろう。
「私がいなくなったとき、あの人に縋れるものなんてたったひとつしかない」
胸に空洞を抱えたあの人はきっと、がむしゃらになる。これまで私と過ごしていた時間と気力のすべてを使って、追い求めるだろう。
「『アイドル』しか」
彼女にはそれしかない。絵里が困ったように私の顔を見るのがわかった。
「……わからないわ。何なの、にこのことが嫌いになったわけではないのね?」
「わからなくていいの」
これは私のエゴだ。にこちゃんに「私の恋人」なんかじゃなくて、アイドルとして輝いていてほしいと願う、ちっぽけな私のあさましい願いだ。
彼女は選び、選ばれている。彼女の目指すべきものは、もっともっと遠い彼方だ。
「……真姫にも色々と考えがあるのはわかるわ。でもにこは今、すごく辛いと思うの。お願い、一緒にいてあげて」
絵里が懇願するように言う。だけど私は平気だった。
「そばにいるだけが愛なの?」
笑みさえ浮かべることができた。
「何なのよ……」
絵里が奇妙なものでも見るような目で私を見る。
「あなたはそれで平気なの?」
「寂しくて死にそうよ」
にこちゃんと過ごす日々は楽しかった。何でもないことばかりだったけれど、それでも一瞬一瞬が大切だった。
「あの人がいない私の世界なんて真っ暗」
大好きだ。叫んだっていい。私は彼女が大好きだった。
「なら……!」
困り切ったように絵里が言う。だけどもう、これ以上彼女と話すことなんてなかった。にこちゃんは彼女の道を歩み始めている。彼女はもう決して、足踏みをしたりはしないだろう。そんな余裕は許されていないのだから。
「絵里、私の家こっちだから、ここで」
私はそう言って、強引に絵里に別れを告げた。
「真姫……!」
これ以上、にこちゃんの話をするのはつらかった。絵里が追ってこないのを確認しつつ、早足でそのまま歩き続ける。
近所の図書館に来るだけなのに、どうしてこんなにヒールの高い靴を履いてきてしまったのだろう。足が痛い。久しぶり彼女のことを思い出してしまって、胸が詰まった。
まだ癒えない傷口が膿んでいる。彼女も同じだといい。忘れないでいてくれるといい。空っぽになった胸のなかで、彼女への思いだけがぐるぐると行き場をなくして煮詰まっていく。
”この世で一番最高の、とびっきりのアイドルになって”
私にはあの約束だけが、どこまででも彼女を信じ尽くす苛烈な熱だけが全部だ。私は参考書で重いカバンを抱え直す。
私はここで、一人でも生きられる。
早足で歩き続けたけれど、いつの間にかアスファルトにぽつぽつと涙がこぼれていた。
「……っ、う」
”好き、真姫ちゃん”
私は何度も夢を見る。私のどこまでも暗い夜の世界の中で、あなたはいつまでも輝いている。
”世界一好き”
私にはそれだけでいい。
約束は果たされるだろう。彼女はきっと最高のアイドルになる。
暗い夜道を立ち止まらず、ヒールの足音を響かせながら私は歩く。
誰もが彼女に熱狂するだろう。届かない場所で遠く光る彼女に手を伸ばそうとするだろう。にこちゃんはきっと私の想像のつかないくらい遠くまで、その輝きで照らすだろう。私は彼女の笑顔を思い浮かべ、暗い夜空を見上げる。
あなたが星だ。
――それだけでいい。