彼女が持っているものは、全部欲しかった。

 持っていないと気が済まなかった。

 

 最初はアニメのキャラの持つ、変身のためのコンパクトだった。

 きれいな宝石(もちろん偽物だ)がついた、丸い光るコンパクトを、希美は誕生日に買ってもらったのだという。

「ななちゃんも触ってみる?」

 私がよほど物欲しそうな顔をしていたのか、希美はそう言ってそれを差し出してきた。

 でも私はそれに触りさえしなかった。

 だって、うらやましい気持ちにしかならないことがわかっていたからだ。

 私は家に帰ってすぐに、お母さんにそれをねだった。

「誕生日プレゼント、買ったばっかりじゃない」

 お父さんにもすがった。だけど父の言うことは母と同じだった。確かに私の誕生日は一ヶ月前に来たばかりで、そのとき私は新しいゲームを買ってもらっていた。そのときはそれが最新で、どうしても欲しかったのだ。そのゲームをすぐに買ってもらったのは私と、お兄ちゃんがいる畠山だけで、すぐに攻略した私は得意だった。しばらくはクラスメイトに、そんなことも知らないのかと先のストーリーを小出しにして自慢できた。

 でも今はあれが欲しい。

 どうしても前からこれが欲しかったの、と希美は言っていた。すごーい、かわいい、と言われて得意げだった。

 なんで希美が持っているのに、私は持っていないんだろう。ボタンを押すと、宝石は順番に光った。そして最後に全部が虹色に光った。

 おもちゃだけど、すごくきれいだった。

 アニメの中では、あのコンパクトを使うと変身できる。もちろん現実はアニメと違うなんてわかってる。でもあれがあれば、きっときれいな女の人にだって変身できる気がする。

 私は死ぬほど泣いた。

 でもお母さんもお父さんも、じゃあ買ってあげるとは言わなかった。

 ちょうどその週末、お父さんはおばあちゃんの家に行くことになっていた。おばあちゃんは最近腰を悪くして、お父さんがよく様子を見に行っていた。おばあちゃんの家は茨城にあって、車でけっこうかかるから、私はあまり好きじゃなかった。お母さんが行きなさいと言ったときだって、友達と約束してるからと言って断っていた。

「久しぶりに行こうかな」

 そう言うと、お父さんはとても喜んだ。

 車で片道三時間は、とても長くて退屈だった。高速道路の何の変哲もない灰色の道路を見ながら、私はあの宝石のコンパクトのことだけを考えていた。

 おばあちゃんは、コンパクトを買ってくれた。

 私は当たり前のように、それを前から持っていた風でさりげなく希美に見せた。

「ななちゃんも買ってもらったんだ?」

 希美はくったくのない様子で話しかけてくる。

「おそろいだね」

 そんなこと何も嬉しくない。

 でも、希美が持っているものを私が持っていないなんて嫌だ。

「うん、おそろい」

 ふたつのコンパクトを並べてみる。

 あれほど欲しかったものなのに、そうしてみるとそれはあまりに子供じみていた。私の気持ちなんて知らずに、希美はほほえみ、二つのコンパクトはぴかぴかと光っていた。

 

 

 

 

 

 

 お母さんは、昔ちょっとだけ舞台に立っていたりしたことがあるらしい。

 よくは知らないけれど、たしかに「美人ね」ってよく今でも言われている。

 私は外見には恵まれていた。

 希美もそうだった。

 でも私達たちはだいぶ、タイプが違った。希美は私より背が低くて、体重は重かった。くるっとした大きな目をしていて、髪は細くて柔らかかった。

 私の髪は硬くて太い。背ばかり伸びて、がりがりだった。

 

 私は希美の髪を触らせてもらうのが好きだった。

 希美の髪はすごく触り心地がいい。とびきりかわいい私のリボンを貸してあげて、三つ編みにした。そうすると希美は絵本に出てくる外国の女の子みたいに見えた。私の髪は三つ編みにしても、硬いほうきみたいにしかならない。

「ななちゃん、上手だね」

「いつも希美の髪触ってるから」

 希美の髪は柔らかくて、少しだけ茶色っぽい。私の真っ黒な髪とはまるで違う。

「私専属になってよ」

「高く付くよ」

「いいよ」

 希美と私は家が近所で、同じピアノ教室に通っていた。ピアノはあまり好きじゃない。お母さんがピアノくらいは弾けないとというので、いやいや習いに行っていた。

 でもそのうちに、希美よりも進んでいないのは嫌になって、ちゃんと練習をするようになった。

 希美はスローペースだけれど、確実にちゃくちゃくと進めてくる。

「練習、めんどくさくない?」

「ピアノ弾くの好きだから」

 希美は言っていた。

「ななちゃんみたいにうまくは弾けないけど……」

 希美と私は同い年だけれど、よく希美が妹かと間違われた。

 実際、希美も妹のように私になついていたと思う。本当の姉妹みたいねともよく言われた。

 希美はいつも、「ななちゃんはすごい」と言っていた。

 

 

 中学校に上がって少しした頃、希美は「好きな人ができた」と言った。

 希美とは、同じクラスになったりならなかったりした。でも家が近かったし、ピアノ教室も同じだったのでよく一緒に遊んでいた。中学もやっぱり同じところだった。

 私は男の子を好きになるということがよくわからなかった。ジャニーズの男の子なんかはかっこいいとは思う。それに比べると、クラスの男子は全然だった。

 希美はとっておきの秘密を打ち明けると言って、好きな男の子の名前を教えてくれた。

 バスケ部にいる、佐久田という二歳年上の先輩だった。

「試合を見に行ったんだけどね、すごいかっこよかったの」

「バスケの試合なんて行ったんだ」

「うん誘われて、たまたまなんだけど」

 私は知らなかったが、彼は学校の中でも人気の男の子らしかった。

「ななちゃんは知らないと思うけど……」

「名前くらいは聞いたことあるかも」

「ななちゃん、クールだから」

「別にそういうんじゃないよ」

 今までごちゃごちゃに遊んでゲームの話なんかをしていたのに、いつの間にか、男子と女子と別れることが増えた。私はその区別にあまりついていけてなかった。男も女も変わらないと思っていた。

 だけどクラスメイトたちはこっそりまつげを上げて、色付きのリップをし始めていた。子供がそんなことしたって大して変わらない。

 でも、女友達はそういう小さな区別にいかに気づくか血道を上げていて、「かわいい」「色がいい」なんて言い合っていた。そのうちに付き合いだすクラスメイトもいた。

 希美もどっちかというと、そういうのとは距離をおいているタイプだった。好きな男の子の話なんて、今まで聞いたことがない。

 それに希美にはお姉さんがいる。

 希美よりずっと痩せていて、よくフリルのついた服なんかを着ている。正直、近所では浮いているけれど、美人ではある。昔、男の人にひどい振られ方をしたらしくて、家に引きこもっている。

 そういうこともあって、希美も男の子になんて興味がないのだと思っていた。

 急に、おいて行かれたような気がした。

 男の子、化粧、恋愛、デート。そういうことを知っている方が、ゲームの展開を知っているより偉い。いつの間にか、そういう世界に私たちはいたのだった。

 私は早熟な子供だったので、セックスの意味くらいは知っていた。だけどそれはあまりにも違う世界の出来事みたいだった。

 もし希美も佐久田と付き合うことになったら、そういうことをする。

 背筋に冷たいものが走った。

 ……汚い。

 希美の柔らかい皮膚に触れて、足を開かせて、佐久田はそういうことをする。

 よく知らない彼が、気持ちの悪いものとしか思えなくなっていく。

 でもそれが、大人ということだ。

 佐久田を好きな希美は、きっとそういうことだってしたいのだ。

 希美の欲しい、佐久田先輩なら私だって欲しい。

 

 

 

 私はクラスにいる、バスケ部の男子に近づいた。

「試合とかってどこでやってるの?」

「何だよ急に」

「この間テレビで見て、バスケかっこよかったから」

 もしかしたら、先輩目当てだということはバレていたのかもしれない。だけど彼、増島もまんざらではなさそうだった。

 試合は来月、隣の市の体育館であるらしい。別にチケットはいらなくて、同じ学校の生徒なら入れるらしい。

「希美、行こうよ」

「でも、前にも行ったばっかだし……」

「いいじゃん、行こ」

 私だって今までまともにバスケを見たことなんてない。

「行こうよ、好きなんでしょ? 佐久田先輩」

 希美はまだ迷っている様子だった。だけど私にはわかる。希美は絶対に行く。

 私だってバスケのルールさえわからない。でもこういうとき、何も知らずにきゃーきゃー言っているだけではだめだと思った。

 私は必死にスマホで情報を確認した。今の日本のバスケの現状。伝説と言われているアメリカのプレイヤー。youtubeの動画なんかを見て、たしかにすごいとは思った。

 二メートル近い身長の男の人たちが、激しくコートを行き来し、汗が飛び散る。そして、迫力のダンク。思わず息を飲んでいた。

 猛勉強のかいあって、それなりにバスケについて語れるようにはなった。

 自然と、増島ともぽつぽつバスケの話をするようになった。増島は、こんなにバスケの話ができる女子はいないと喜んでいた。佐久田先輩が好きなNBAのチームについても知った。

 その間、希美は何をしていたのだろう。

 服を選んだり、化粧をしたりしていたのかもしれない。

「ななちゃん、私もやっぱり行くね」

 前日、ぎりぎりまで悩んでいるそぶりだった希美はやっぱり言った。

「そうこなくちゃ、楽しみだね」

「うん……差し入れとかしたほうがいいのかな……?」

「無理にしなくてもいいんじゃない?」

 私は増島に「明日はがんばれ」とメールを送る。

「ななちゃんは増島くんの応援するの?」

「え?」

 クラスの違う希美が、増島のことを知っているとは思わなくて、思わずすっとんきょうな声を出してしまう。

「なんで?」

「だって、仲いいじゃん、最近」

「うーん」

 佐久田先輩のことを聞き出すためだ。

 先輩は半年前に、年上の先輩と付き合っていたけれど別れたらしい。だけどこれは増島に聞くまでもなく、有名な話らしかった。きっと希美も知っているだろう。

「希美こそ、どうなの、先輩」

「どうって……先輩は私の事自体知らないよ」

「知ってもらえばいいじゃない」

「先輩ってどんな子が好きなのかな」

「うーん、希美みたいなかわいい子じゃない?」

「ななちゃん適当言ってるでしょ」

 私は希美と会話をしながら、こっそり増島にメールする。

 ”佐久田先輩って、どういう子が好みだと思う?”

 さすがに露骨すぎるかと思って、そこまで直接的なことは聞いていなかった。さっきまで即レスだったのに、増島からの返信はなかった。

「希美ならかわいいし、いけるよ。告白してみたら?」

 内心では冷静に、無理だろうと考えていた。

 いや、でも佐久田先輩ももうすぐ部活の引退だ。希美は最近ますます、女の子らしさに磨きがかかったようだった。休日に遊ぶとき、希美といるとたまに町で声をかけられたりする。私が大人びて見られることもあって、ふたりとも高校生くらいだと見られているらしい。中学生だというとびっくりしていた。

 希美はもう化粧品を一揃い持っている。

 もちろん私も買ってもらったけれど。希美ほどには、細かい化粧のテクニックになんて夢中になれない。

 化粧をしているときの希美は本当にかわいかった。本当にかわいい、と思うと、得体の知れない気持ちで胸の中がぐるぐるする。

 私は希美みたいにかわいらしいものは似合わない。

 最近ますます背は伸びて、OLなんてからかって言われるようになった。

「希美はかわいいから」

「そんなこと言ってくれるの、ななちゃんだけだよ」

 そんなわけはないのに、白々しくも希美は言う。

 希美に告白をされたら、先輩だって嫌とは言わないかもしれない。そのくらい、希美はかわいらしい。

「ななちゃんの方が、全然きれいだよ……私なんて……」

 だって、告白されて付き合ったら、何をしてもいいのだ。キスしてもいいし、セックスしてもいいということ。

 背筋が粟立つ。だめだ。そんなこと絶対に許さない。

 希美のくせに。

 いつかは確かに希美だってそういうことをするだろう。でも、少なくとも希美より先じゃないと嫌だ。

 希美の持っているものは全部ほしい。

 恋人だってそうだ。

「だって希美は、本当にかわいいから……」

 私は心なく言う。

 増島からは、「大人っぽいしっかりした子」とメールが来ていた。

 ぽっと心のなかに明かりが灯るみたいだった。それはあまりに、私にぴったりな答えだった。それならば、先輩は希美より私と付き合いたいと思うんじゃないだろうか。

 希美には、負けない。

 

 

 希美と先輩を付き合わせてはだめだ。

 だけど、希美に「先輩はやめなよ」なんて言っても無駄なのは目に見えている。

 それなら、私が先輩と付き合うしかない。

 ねだって買ってもらったけれど、まだあまり使っていない化粧品を取り出す。鏡にうつる少女は、まだ骨ばっていて子供っぽい。同年代に比べれば大人びてはいるのかもしれないけれど、それも比較的というだけだ。

 私はネットの情報を確認しながら、丁寧に化粧をする。

 下地を広げ、ファンデーションを塗り、ビューラーでまつげを上げる。マスカラを二度塗りすると、かなり目がぱっちりとして見えるようになった。

 でもまだ何か、足りない気がする。

 この間、希美はお母さんから本物のダイヤがついたネックレスを譲ってもらったらしい。

「とっておきの日にだけつけようと思っているの」

 きっと明日、希美はそれをつけてくる。

 希美のお母さんは、市役所で働いている。市役所で働いていてもダイヤが買えるんだろうか。お父さんに買ってもらったものなのかもしれない。希美のお父さんは、機械の会社で働いている。

 私のお母さんは働いていない。

「お母さん、いらないネックレスとかない?」

「なんでよ」

「なんでもいいから」

 お母さんはドレッサーの引き出しをひっくり返して、いくつかのネックレスを見せてくれた。付き合っていた頃にお父さんにもらったとかいうティファニー。でもこれはダメだ。銀だし、何も宝石がついていない。

「ダイヤとかないの?」

「そういうのあんまり好きじゃないのよね」

「ダイヤがいい」

「あんたのために買ったんじゃないんだから」

 お母さんは呆れた顔だった。

「これは?」

「……これは大事なのだから、だめ」

 小さな袋に入ったままのネックレスを取り出す。鎖は金色で、ペンダントトップは花がかたどられていた。花の中央には白っぽい、透明な輝きの石があった。

 ――ダイヤだ。

 どっと血が沸き立つ感じがした。

「ほら、おもちゃじゃないのよ」

「これがきれい」

「そうね」

 お母さんはそれ以上のことを話さなかった。でも格別に大事にしている、高価なものなのだとは想像がついた。

 希美の髪につけてあげたのは私のリボンだった。でも今、希美は髪にリボンをもうつけない。

 希美においていかれる。

 おばあちゃんのところに行くような時間はない。

 焦燥感でお腹が痛かった。

 私はお母さんがお風呂に入っている間に、こっそり花のついたネックレスを取り出した。

 盗むわけじゃない。借りるだけだ。希美に負けない、とっておきの自分であるために。

 鏡にうつる、ネックレスをして化粧をした私は、知らない女みたいだった。

 

 

 体育館は、むっと蒸したような匂いがした。客席の人はそう多くない。もっと人がいっぱいなのかと思ったが、学生の試合などこんなものなのだろう。それでも応援団たちは声を張り上げている。

 試合は白熱していた。だけどうちの学校のバスケ部はそれほど強くない。佐久田先輩を始め、みんな善戦しているようだったけれど、じわじわと押され始めていた。

 動画で見たプロの試合とは雲泥の差だ。

「どうしよう……先輩がんばって……!」

 希美はやっぱり、あのネックレスをしていた。なぜだろう。希美はまだ子供っぽい輪郭をしているのに、そのネックレスは彼女の白い肌に不思議と馴染んでいた。

 ナチュラルなメイクも完璧だった。私のほうが慣れない化粧に不安になってくる。

「ななちゃん、今日かっこいいね」

 嫌味かと思った。

 希美は白いシャツにスカートという、お嬢様風の格好をしていた。白いシャツは希美の肌の白さを際立たせる。

「かっこいいって何」

 希美はかわいい。文句なく。きっと誰もがそう思うだろう。

「いや、違う違う、かわいいね」

「ばかにしてるでしょ」

「そんなことないよー!」

 私のネックレスは借り物らしさばかりが目立つ気がした。

 希美は本当にバスケについては素人で、私がルールをいちいち解説してやらなければならなかった。解説をしながら、私はほっとしていた。

 私のほうがちゃんとバスケについて勉強している。先輩はきっと、バスケの話ひとつまともにできない希美より、私のほうがいいだろう。大人っぽい子が好みだというし。

 問題は、いつ希美に隠れて先輩に告白するかだった。

 私はそれも、増島に頼んで、試合後に先輩と少し話せるよう手配をしていた。希美はどうやって先輩に近づくつもりなのだろう。私は増島というコネがあるからいいけれど、いきなり突撃するつもりなんだろうか。

「緊張するー」 

 希美は両手を合わせながら試合をじっと見ていた。

 先輩は確かにチームの中では一番見栄えがしていて、かっこよかった。意外だったのは、増島も善戦していたことだ。先輩よりもだいぶ背は低いけれど、その分足が速くて、ぱっと人のいないところに行ってパスをもらう。

 彼にも世話になっているし、後ですごくよかったと褒めておこうと心に留める。

「増島くんもうまいね」

「まぁ……足が速いんだね。昨日は眠れないとか言ってたのに」

「昨日?」

「あ、ラインで……」

「増島君とラインしてるんだ」

 希美はなんだか、私と増島の仲を疑っているみたいだった。自分は先輩と付き合うから、私は増島と付き合えばいい、みたいな発想なんだろう。だけど私だって付き合うなら先輩のほうがいい。

「仲良しだね」

「別に、試合の話とかだよ」

「それにしたって、ななちゃん、あんまり男子と喋ったりしてなかったじゃん」

 それは今まで、クラスの男子があまりに幼稚だったからだ。増島とバスケの話をするのは、知識を深めるためにも役立った。

 話しやすい、いいやつであることは認める。

「そう? そんなこと言ったら、希美もじゃん」

「私はいいの」

 希美は男子とだけじゃなく、女子ともあまり喋っていない。

 クラスが違うから逐一見ているわけではないけれど、なんとなくは知っていた。私のクラスで一番モテて力のある女子は渡辺さんだが、私は彼女と仲が良かった。そのためもあって、クラスでも話し相手に困ることはない。

 希美は天然ボケみたいなところもあるからか、ちょっと周囲から浮いているみたいだった。

「……ななちゃんがいるし」

 ぼそりと希美が言う。希美は本当に、小さい頃から私になついている。

 先輩と付き合うことになったと言ったら、どんな反応をするのだろう。

 想像するだけでぞくぞくした。そんなの許せない、と怒るとは思えなかった。きっと、そうなんだ、とその場ではおめでとうと言って、一人の家の中で泣くのだろう。泣きはらす希美の様子を想像すると、それだけでにやにやしてしまいそうになる。

「あ、またフリースローだよ!」

 うちの学校のチームはずいぶん善戦していた。

 そうして奇跡的に、先輩がスリーポイントシュートを決める。流れがきている。そしてあっけなく、うちの学校のチームは勝ってしまった。

「ななちゃん、どうしたの?」

 私は立ち上がる。

「ちょっと増島に激励してくる」

「あ、じゃあ私も……」

「希美は待ってて!」

 でも私の勝負は、これからだ。

 

 

 体育館の裏は、試合の喧騒が嘘のように静かだった。

「……すみません、俺、好きな人いるんで」

 試合直後というのは、彼も疲れているし、打ち上げだなんだの時間もあるだろうし、呼び出すのにはよくなかったかもしれない。

 でも、トイレで最終確認した化粧の調子も、バスケがもともと好きでそれから先輩のことが気になって、という告白もちゃんとうまくできたと思う。

 だけど、先輩の返事はつれなかった。

「そう……ですか」

 私のことをよく知らないから、と言われたら粘ろうと思っていた。実際、先輩は私が同じ学校の後輩だともわかっていない様子だった。

 これでは、粘りようがない。

「急に、すみませんでした」

「いや、嬉しいよ。ありがとう」

 先輩はユニフォームではなくジャージに着替えている。疲れているだろうに笑顔も見せてくれた。よくできた人だなと思う。

 恋人はいないと聞いていた。増島だってそう言っていた。

「でもあの、恋人はいないって……」

 振るための口実なのだろうと思った。

「みんなには言ってないけど、ほんとはいて……すみません。同じ学校だし、俺が卒業しても彼女はまだいるから、色々……」

 そこまで聞いてしまうと、嘘だとは思えなかった。私のことを断るための口実にしてはディティールがちゃんとしている。

 私は頭のどこかで冷静に、これで希美が告白しても無駄だろうと喜んでいた。

「ごめんなさい、最後にひとつだけ聞かせてください……これだけ教えてもらえれば諦めます。彼女って、誰なんですか」

 先輩は言いよどんだ。誰にも言っていないのは、彼女がやっかまれるだろうことを気にしてでもあるのだろう。

「絶対に誰にも言いません、誓います。これだけ、最後にお願いです」

 私は涙を浮かべながら言う。

 振った負い目もあったのかもしれない。やがて佐久田先輩は「絶対に言わないでね」と二度ほど念を押した。

「一年の、福井希美っていう子……」

 

 

 

 

 騙された。

 携帯には希美から、どこに行ったのかと連絡が来ていた。だけどもう、希美の顔なんて見たくない。

 「急用があるから先に帰って」と送る。

 人のいないところを探して、私は体育館の隅のトイレに来ていた。トイレは古臭くて、少しにおった。だけど誰もいなければ構わなかった。

 ボロボロ涙が溢れる。

 希美は嘘をついていた。

 あれが先輩の嘘だとは思えなかった。そんな嘘をつく必要がない。

 希美が、私に嘘を。

 先輩は自分のこと自体知らないはずだと言っていた。大嘘だ。

 ――なんで? どうして?

 わけがわからない。かあっと頭が熱くなる。ぐらぐらする。そうして泣きたくなんてないのに、ぼろぼろと涙は溢れ続けた。

 いつからだろう。一体どこでどうやって先輩に接触したのか。あのネックレスを希美がお母さんから譲ってもらった頃かもしれない。思い返すと何もかも怪しく思えてくる。少なくとも先輩が前の彼女と別れて以降だろう……いや、それすらもしかしたら怪しい可能性だってある。

 希美が前の彼女から、先輩を取った可能性だって。

 もう何も信じられなかった。

 希美は私のことを、いつだってすごいと言ってくれていた。

 自分はとろくて、何もできないからと。

 先輩に振られたショックなんてかけらもなかった。少しだけプライドが傷ついたけれども、別に好きでもなかったのだから当然かもしれない。

 私にとっては、希美に欺かれていたということだけが大事だった。

 鏡にうつる私の顔は、化粧が落ちてぼろぼろだった。

 トイレットペーパーで必死に拭う。まだ子供っぽい、私の顔が現れる。女性らしいモチーフのネックレスは、やっぱり全然似合っていない。

 希美みたいな、かわいらしい顔に生まれたかった。

 希美はがんばらなくても、好きな人に好かれる。あの細い柔らかい髪の感触を思い出す。先輩の大きな手が、彼女の髪をなでているところを想像すると吐き気がした。

 希美はどういうつもりなのだろう。まさか、私が先輩に告白するだろうことなんて、考えもしていないだろう。

 ならなぜ、あんな嘘をついたのか。

 先輩と付き合いだしたということが言いにくかった?

 確かに学校で人気の先輩なら、クラスメイトにやっかまれたりはするかもしれない。

 どれだけ考えてもわからなかったし、希美本人には聞けない。先輩に告白したなんて死んでも知られてはならない。

 私は水道で顔を洗ってトイレを出た。

「うわっ、何やってんだよ」

「増島……」

 トイレを出たところで、増島と鉢合う。試合のユニフォームではなく、Tシャツに着替えている。こんなひとけのないトイレになぜいるのかはわからなかった。

「なんでこんなとこいるの?」

「こっちのせりふだ」

 もしかしたら、私のことを探していたのだろうか。顔は洗ったけれど、化粧が落ちているのも、目が赤いのもきっとバレバレだろう。

「試合、お疲れ」

「おう」

「やったじゃん」

「まぁな」

 試合で疲れているのか、なんだか増島は普段と違った雰囲気だった。何か言いたいことでもあるのか、おどおどしている。

 私は疲れていたし、早く家に帰りたかった。

 だけどこのまま増島を無視するのも悪いかと思い、その場に立ち止まる。

「……あー、先輩、あれで結構難しい人だしさ」

「何?」

「こんなこと言っても無駄かもしんないけど……元気出せよ」

 そういえば、増島には先輩の連絡先を聞いたりしている。きっと私が告白して、振られたことも察しているのだろう。

 増島は今までに見たことがないくらいおどおどしていた。

 試合中のちょっとかっこよかった姿なんて見る影もない。

「勝ててよかったね」

「おう」

「わりとかっこよかったよ」

「えっまじで」

「先輩の次くらい」

「マジかー、じゃあ俺と付き合う?」

 増島はあくまで軽い口調で言ったつもりだったのだろうけれど、声はかすかにふるえていた。それに、彼は私の方を見なかった。

 ひとけのないトイレを選んだから、付近には誰もいない。

 まさか増島と付き合うなんて、考えたこともなかった。試合中は確かにかっこよかったけれど、増島は背も私と同じくらいか少し低いし、全然好みじゃない。まぁ、先輩だって別に私の好みではなかったのだけれど。

 増島はクラスでも別に人気ではない。ごく普通の子供っぽい男子だ。ごめんと言おうとして、私はふと考える。

 先輩じゃなくても……いいのかもしれない。

 彼氏がいるなら希美と同じレベルになれる。

 希美には彼氏がいる。私は希美に欺かれた。なら私も、希美に秘密を持たないと。

 少なくとも彼氏がいれば、希美より下にはならない。

「いいよ」

 希美の持っているものは何でもほしかった。

「えっ」

 弾かれたように増島が顔を上げる。少しだけ顔を近づけると、増島の頬がはっきりと赤くなるのがわかった。

 私は微笑む。

 手に入れないと気が済まない。

「でもひとつだけ……みんなには絶対、内緒ね」

 

 

 ・

 

 

 私は増島と付き合い始めた。

 もちろん希美には内緒だ。

 増島は実際、付き合いやすい相手だった。バスケについては私も勉強していたからそれなりに話ができたし、気さくにやり取りができる。

 増島は異性との付き合いに不慣れなようだったけれど、それなりに私を女の子として尊重もしてくれた。

「ななちゃん、今日の放課後って空いてる?」

 休み時間に、私のクラスにやって来た希美は言った。

「あ、ごめん……明日は?」

 今日は増島とデートをする約束をしていた。とはいっても、私が絶対に周囲にばれたくはないと言っているから、帰るのも別々だ。着替えて少し遠くの繁華街に遊びに行く予定だった。

「最近忙しい?」

 別にそんなに何度も断ったわけじゃないのに、その日の希美はやけに食い下がった。

 「ださいね」と言って笑っていた中学の制服だが、こうして見ると希美にはよく似合っていた。髪がほんの少しウェーブしているのは、クセなのだろうか。それとも、何かで巻いているのか。

「そんなことないよ」

 忙しいのは希美の方だろう。私は声に出さずにつぶやく。

 先輩との付き合いはうまく隠しているみたいだった。だけど先輩は人気者だ。この間、隣町のデパートで女の子といるところを見たと誰かが話していた。小柄な子で、仲がよさそうだったという。先輩に妹はいない。十中八九、希美だろう。

「発表会の練習してる?」

「え」

「出るでしょ?」

 当たり前のように希美は言う。

 ピアノは小さい頃からずっとやってきている。希美と最初に出会ったのも、ピアノ教室でだった。

 だけど最近、私はもういいかなと思い始めていた。ピアノを弾くのはそれほど好きじゃない。何より練習時間がとてもかかる。そろそろお母さんに、やめたいと言ってもいいかなと思っていた。

「うーん」

「出ないの?」

 希美は驚いたように言った。

「試験勉強とか、色々あるし……」

「ななちゃんは頭いいから大丈夫だよ」

 希美は昔から、ピアノが好きだ。その情熱の理由は、私にはちょっとわからなかった。希美は手が小さくて、力も弱いから、弾ける曲が限られている。私のほうがちゃんとオクターブに指が届くし、先生に褒められることも多かった。

「それより、何だっけ? カフェ?」

「フレンチトーストのお店……」

「いいよ、明日行こうよ」

「……うん」

 希美はまだ何か言いたげだったけれど、私は強引に打ち切った。

「ハワイみたいなやつ?」

「それパンケーキじゃない? ななちゃん、どうでもいいんでしょ」

「よくないよ。楽しみ、ほんとに」

 私は希美の手を軽く握る。テンションが高くなってそうしてしまったというように、二度ほどかるく振る。

「うん」

 希美がやっと笑った。希美の手は、私の手にすっぽり入ってしまうくらい、本当に小さい。

 

 

「あのね……実は私、先輩と付き合ってるの」

 駅前に新しくできたという、フレンチトーストを専門にするカフェだった。私は正直、フレンチトーストはそんなに好きじゃない。ほぼご飯っていう感じで、重すぎる。でも希美が二種類は食べたいみたいだったから、二人で二皿頼んだ。

 店の中はさすがにしゃれていて、若い女の子で混雑していた。フレンチトーストは一皿千円以上した。お小遣いに余裕がない中ではて痛い出費だった。

「えっ」

 私は必死で驚く振りをする。

 遅い、と内心では怒っていた。私にだけ打ち明けるにしても、あまりにも遅い。

 希美は今日も、長い髪をわずかにウェーブにしていた。夜に三つ編みでもしているのだろうか。ちょっと野暮ったい感じもしなくはないけれど、希美の雰囲気にとても合っている。

 ナチュラルでかわいらしいこのカフェも、希美にとても似合う。私向きじゃない。

「他に誰が知ってるの?」

 ななちゃんだけだよ、という答えを期待していた。同性で希美と仲がいいのは、私だけだと思っていた。

「同じクラスの吉野ちゃんだけ」

「……へぇ、そうなんだ」

 私は衝撃に負けずに、かろうじて声を絞り出した。

 私にだけじゃなかった。

 しかも、私のほうが後だ。

 先輩と付き合っている、と知ったときにも似た鈍い衝撃がじわじわ胸を締め付ける。希美にとって、一番じゃなかった。

「仲いいんだね」

 希美はクラスの子とはそんなに仲良くないのだと思っていた。吉野という子は、何度か姿を見たことはあると思う。希美ほどかわいくなくて、赤ら顔の地味な子だ。そんなに仲がいいとは思わなかった。

「うんまぁ、クラスではね」

 希美は私に遠慮するみたいに言う。

 でも、その気を使った感じもなんだか嫌だった。

 なんで、彼女に先に話したのだろう。彼女ともこうやってカフェに来たりしたのだろうか。秘密の話だよ、なんて言って。

 秘密の話をするなら、私に最初にすべきじゃないのか。黒い重いタールみたいなどろりとしたものが、胸の内側にはりついているみたいだった。吐き出してしまいたい。だけど吐き出す場所なんてない。

「ねぇ、ななちゃんは?」

 吉野なんて女、いなくなればいいのにと思った。希美はもっとクラスで孤立したらいい。

 もっともと。だってそうしたら……。

「なに?」

「ななちゃんはどうなの? ……増島くんとか」

 希美は鋭いのかもしれない。まさかここで増島の名前を出されるとは思わなかった。

「えー? なんで増島?」

 だけど私は平然ととぼける。

 私がここで、希美に増島とのことを告白したら、私たちはまた同等になれる。

 でも、佐久田先輩と、増島とが釣り合うように私には思えなかった。どう考えても、先輩と付き合っている希美のほうが上だ。増島はいいやつだけれど、客観的に見てかっこいいかというと疑問だ。

「ないない」

 私は作り笑顔を浮かべる。

 希美に負けている、という敗北感と、希美に秘密を持っているという優越感がないまぜになる。増島と付き合うのは思ったより楽しい、はずだった。希美とのことを置いておいても。

「ほんとに? いい感じじゃない? 増島くんと」

「あんなの全然。ただの友達だよー」

 私は笑ってフレンチトーストにフォークを突き立てた。

 増島のことを好きになれるかもしれないと思った。だけど希美の前にいると、彼女が持っている以外のものは、すべて色あせて見えるのだった。

 

 

 増島との付き合いは、一応続いていた。男の子との付き合いというのは、もっと大変なものなのだろうと思っていた。でも、意外と楽しかった。

 増島は良いやつだ。気乗りしない時にデートを断っても、忙しいんだろうと言って気をつかってくれている。たぶん、私がそこまで付き合いに乗り気じゃないこともバレバレなんだろうけれど。

「……なぁ、キスしていい?」

 カラオケで二人きりだったとき、増島は答えを聞かずにキスをしてきた。

 それが嫌だったというわけじゃない。付き合えばそういうことをするというのは織り込み済みだ。

「嫌だった?」

「ううん……」

 希美はもう、先輩とセックスしたんだろうか。聞きたいけれどさすがにそこまでは聞けない。

 でもたぶん、もうしてるんだろう。

 それを思うと、どっと疲れるような気持ちになる。

 希美のせいで、私の中には黒いものばかりが溜まっていく。

 四六時中希美と一緒にいるわけじゃないし、どうしたって私の知らないことは増えるばかりだ。

 いっそ希美ともっと距離を置きたい。彼女の新しい情報を知らないでいたら、感情を左右されることもないと思う。希美が結婚しようと、死のうと、私は知らないでいたら……。

 ”ななちゃん”

 でもそれもやっぱり嫌だった。私の知らないところで、彼女が変わっていくなんて嫌だ。

 希美についてのことは一番に知りたい。

 私が希美の一番でありたい。

 たとえそれが知りたくないような情報であっても。

 そんな自分の感情を、どうしていいか私にはわからなかった。

 

 

 それからしばらくして、希美の家に借りていた本を返しにいったときだった。希美の家にはもう行き慣れている。当たり前のようにおじゃまして、玄関に見慣れないサイズの大きな靴を見つけた。

 希美のお父さんのものだろうか。

 そう思っているうちに、希美の部屋から出てきたのは先輩だった。

「えっ」

 まさか家に呼んでいるとは思わなかった。でも、希美の家は共働きだから普段誰もいない。考えてみれば、付き合いがバレないようにするためには、家でデートした方がまだいいのかもしれない。

「あ……どうも」

「こんにちは」

 先輩は少し気まずそうだった。

「希美は?」

「部屋にいますよ。希美、帰るな」

 先輩のラフな呼び捨てに胸が痛む。

 はーい、と希美の声が聞こえた。

「奈南ちゃん来てるぞ」

 先輩はそう続けた。

「え、待って!」

 希美の声が答える。

「私の名前……知ってたんですね」

 先輩は背が高くて、見慣れた希美の家が狭く感じられる。息苦しい。先輩と顔を合わせるのは、あの日の告白のとき以来だ。

 今思えば、あのときの私は完全にどうかしていた。初対面でいきなりバスケの試合後に告白なんて、非常識にもほどがある。

 ふと急に不安になってくる。先輩は私に告白されたことを、希美に言いはしなかっただろうか。

「知ってるよ。美人で目立つし」

 私の告白は断ったくせに。

「お世辞ですか」

「いや、お世辞じゃなくってさ」

 ……それとも、希美がいなかったら先輩は私と付き合ったんだろうか。考えてもわからないことではあった。

 先輩の靴は本当に大きかった。希美の靴の二倍くらいある。二人が手や足のサイズを比べているところを、私は思わず想像してしまう。

「じゃあ」

「さよなら」

 なぜか私が玄関で彼を見送る。先輩がいなくなると、急に圧迫感がなくなった気がした。背の高い男の人は存在感がある。

 やっと遅れて、ばたばたと希美が部屋から出てきた。

「ごめんね」

「何が?」

「ううん……」

 希美はかわいらしいワンピースを着ていた。部屋着だろうか。

 やっぱりさっきまで、部屋でえっちなことをしていたんだろうか。付き合っている男女が、他に誰もいない家の中にいるというのはそういうことだろう。

 希美の表情や肌からは何も読み取れない。

 でも彼女はさっき、あの男に足を開いていたのだ。そうに違いない。

「これ、借りてた本」

 そう思うと、希美の少し上気した頬も、なんだか下品なものに感じられた。

 後ろで縛っている髪も少しほつれている。見ようと思うと、そこかしこに行為のあとが見える気がする。

「ありがとう!」

 彼はどんな風に触ったのだろう。キスをして、胸をもんで、服をぬがせて。

 希美の濡れた奥に触れて。

「じゃあ」

「えっ、上がってかないの? ケーキあるよ」

「ううん……ちょっと用事あって」

 もちろんそんなものはなかった。ケーキは先輩と食べた残りなんだろう。苛立ちばかりが増幅していく。気持ち悪い。許せない。だけど二人のことだ。私はただの希美の友達だし、何も文句なんて言えない。

 やっぱり、希美と先輩が付き合えないようにしないといけなかった。

「そっか……じゃあ、またね」

 ふっくらした袖のワンピースはとてもかわいくて希美に似合っていた。

 もし仮に、先輩が誰とも付き合っていなくて、私が告白したならどうだったのだろう。でもこんなにかわいい彼女がいるなら、最初から無駄だ。

 別に先輩と本心から付き合いたかったわけでもないはずなのに、悲しくなってくる。

 

 

 その日の帰り、私は増島の家に行った。両親が夜遅くまで帰ってこないことは知っていた。

 初めてのセックスはただただ痛いばかりだった。増島も私も初めてで、行為はたどたどしかった。

 増島の布団は、先輩ともまた違った体臭がした。部屋には意外と子供っぽいぬいぐるみも置いてあった。

 私は天井を見ながら、「希美もこうしたんだ」と、それだけを考えていた。

 

 

 

 

 季節がめぐり、先輩は卒業していった。

 希美と先輩との関係は、ちらちらと目撃されるようになり、周知のものとなっていた。先輩が卒業したこともあって、それほどの話題にはもうならなかった。

 私はしばしば、先輩と顔を合わせるようになっていた。

 希美と一緒に帰ると、家の近所で先輩が待っていたりするのだ。

 希美は私と過ごす時間を、減らしたりはしなかったからだ。

 相変わらず一緒にどこのカフェに行こうとか、水族館に行きたいとか映画に行きたいとか言ってくる。先輩と行きなよと言ったこともあるのだけれど、「ななちゃんとがいい」と言われると悪い気はしなかった。

 先輩は高校のバスケ部にあまり馴染めず、暇なようだった。

 かっこいいと思っていたはずだったのに、ぶらぶらしている姿には幻滅する。だけど希美は変わらず、彼が好きみたいだった。

 私の告白のことについて、先輩は一言も聞いてこなかった。私と希美が前から知り合いであることがわかったら、それなりに気まずくなったり、何か企んでいたのではないかと疑ったりするかと思った。だが、先輩は何一つ、聞いてはこなかった。

 

 ある日、希美が学校を休んだ日に、家の近くの公園で先輩に会った。学校から直接来たらしく、制服姿だった。先輩が通っているのは、近所の公立高校だ。

「あれ? 希美は今日休みですけど」

「そうなんだ? メール返ってこないからどうしたのかなと思ってさ」

 だからって公園で待っているのはどうなんだろうか。

 高校生はそこまで暇なのか。

「なんかすみません」

 だけど希美のことを心配しての行動なんだろう。そう思って私が謝ると、先輩は面白そうに笑った。

「奈南ちゃんが謝るんだ」

「いえ……」

「カゼとか?」

「そうみたいです。今日はおばさん、家にいる日だから行かない方がいいかも……」

 希美の家の両親は結構固いタイプだ。先輩のことを紹介したいけれど難しいと思う、とも希美は言っていた。

「そっか」

 その事情は先輩もわかっているようだった。

 このまますぐに別れるのもなんだか申し訳なくて、私はその場にとどまっていた。

 なんで二人で公園になんていなきゃいけないんだよ、という気持ちもあったけれど。

「大丈夫ですよ、単なるカゼみたいなんで、すぐ治りますって」

「仮病じゃないよね?」

 先輩は表情を陰らせて言った。

「え?」

「いや……最近、メールの返事とか遅いことが多いから」

 希美は先輩との付き合いについて、あまり詳細を語らない。もっと聞き出そうと思ったこともあったけれど、私だって別に知りたいわけじゃなかった。

 もしかして、あまりうまくいっていないのだろうか。

「私で良かったら、相談に乗りましょうか?」

 私は反射的に言っていた。

 別に、親友の彼氏からの相談に乗るだけだ。変なことじゃない。ありふれた、普通のこと。

「うん……もし、奈南ちゃんがよかったら」

 二人きりになれて、静かな店はどこだろう。私は笑顔を浮かべながら、必死に考えていた。

 

 

 少しずつ、私は先輩から愚痴を引き出していった。

 でも、別に大した問題があるようには思えなかった。

 希美はマイペースだし、箱入り娘だから色々気を使う、というのが先輩の愚痴の主な点だった。それに、私との付き合いやピアノのレッスンを自分より優先されることも嫌らしい。

 知るかよ、と私は内心で思いながら微笑む。会える時間は十分あるようだし、別に大した障害でもない。

「希美はほんとに、先輩のことが好きなんですよ」

 優しくしてやると、先輩はどんどん心を開いてくるようになった。

「こんなの、奈南ちゃんにしか言えないけどさ……」

 彼の汚いものが流れ込んでくるようで嫌だった。バスケ部の先輩の愚痴なんて聞きたくない。でも私は真面目な表情を浮かべて、真剣にうなずいた。希美の知らない彼の一面を見れていると思うと、優越感で恍惚とした。

 急に夜、先輩から電話があったのはそれから数日後だった。

 今から会えないかという。急に言われても私にだって都合がある。ちょうど、その日は増島と食事をすることになっていた。だけど先輩の口調がなんだか落ち込んでいて、彼の話をきいてやらないとならないのではないかという義務感にかられる。

 急用ができたからと増島を断った。さすがに罪悪感を覚えたが、仕方がなかった。

 呼び出された先は、カラオケだった。個室に入ると、先輩は一人だけで、何の曲も入れてはいなかった。テレビがうるさく曲の宣伝を流している。

「歌わないんですか?」

「奈南ちゃん、来てくれてありがとう」

「先輩、酔ってるんですか?」

 テーブルの上に置かれているのは、ビールのようだった。

 先輩はまだ高校生だ。どうかと思ったけれど私が口を出す立場じゃない。私は仕方なく、少し距離を置いて座った。先輩はそれからも、曲を入れようとはしなかった。

 どうしようかなと思う。

 せっかくだから歌ったらいいんだろうか。だけど先輩は何か話したいのかもしれない。ウーロン茶をすすりながら、私は待った。

 もともとカラオケは好きじゃない。何をしているんだろう。賑やかなテレビからの音ばかりが響く。

「……希美と、何かあったんですか?」

「もう無理かもしれない」

 女々しいうめき声に苛立つ。それならさっさと別れたらいい。

 だけどそれ以上詳細を語ろうともせず、先輩はうつむいたままだった。隣の部屋で誰が流行りの曲を熱唱しているのが聞こえてくる。

「奈南ちゃんは、まだ俺のこと好き?」

 はぁ?と思い切り聞きそうになるのをこらえた。

 なんであんたなんかを……と思ったところで、やっと自分が彼に告白したことを思い出す。佐久田先輩にとっては、私は「自分のことを好きな女」なのだ。

「いや……その」

 そうやって改めて考えてみると、付き合っている女のことを、自分のことを好きな女に愚痴るなんてどうかしている。佐久田先輩は思ったほど真面目な人ではないのかもしれない。

 その推測はあたっていたことがすぐにわかる。

 佐久田先輩の手が、私のスカートの上に置かれていた。

「あの……」

「俺、奈南ちゃんと付き合えばよかったな」

 殴り倒してやりたかった。希美を何だと思っているんだろう。

 だけど私はそうしなかった。

 うまくいってなかろうと、今のところ佐久田先輩は「希美の彼氏」だ。

 いま、「希美の彼氏」が私にちょっかいをかけている。先輩の手が、私のふとももをスカートの上から撫でる。

「……でも、希美、が」

 私は精一杯、親友に悪いと思っている少女の演技をする。先輩のことは好きだけれど言えない、だって希美に悪いから。そういう風に見えるよう、表情を歪ませる。

 先輩の手が私の顔に伸びてくる。一瞬後にはキスをされていた。

「ん……っ」

 増島ともしたけれど、あまり気持ちいいとは思えなかった。

 さすがに先輩は、増島よりはキスがうまかった。希美ともたくさんしたんだろう。それを思うと腹の底が熱くなってくる。

 これは、希美の男だ。

 希美の唇にもこの唇が触れて、希美の口の中にもこの舌が入った。私は思わず、先輩の唇を求め返す。

 すぐに先輩の手が私の後ろ頭に回る。

 深く唇を重ねながら、私は希美のことだけを考えていた。

 

 

 

 

 ホテルに移動して、私と先輩はセックスをした。

 ラブホテルに行くのは初めてだった。私は入り口からして緊張して、がちがちだった。費用は全部先輩が出してくれた。先輩はなんだか手慣れているみたいだった。

 希美とは家でできるだろう。先輩だってお金に余裕があるわけじゃないはずだ。やっぱり希美以外の女と来たんだろうか。わからない。

 増島よりも、先輩はうまかった。

 場数が違うんだから当たり前ではあるのだろう。ラブホテルの狭い部屋には慣れなくて、落ち着かなかった。バスローブを着てみても、大人の真似をしてごっこ遊びをしているような気分が抜けなかった。

 ベッドの上で先輩と交わりながら、私はじっと考えていた。慣れない体臭がする。希美とも増島とも違う、男臭いにおい。

 希美はどんな風に声をあげたんだろう。

 希美もこんな風に下から先輩を見上げたんだろうか。

 希美の欲しかった男。

 私が欲しかったもの。

「奈南ちゃん……俺も、ななちゃんって呼んでいい?」

 死ぬほど泣いたくらい欲しかった、おもちゃのコンパクトのことを思い出す。希美が持っていると、それはきらきらして見えた。希美が好きだと言った先輩は、確かに誰よりかっこよかった。

「……だめ」

 でも、私の上で腰を振るこの男は全然かっこよくなんてない。

 私はあのコンパクトをどうしたのだろう。あれほど欲しくて、手に入れるためなら何でもすると思ったのに。

「だめ?」

「だめだよ、そう呼ぶのは……希美だけ……」

 いつだって私は希美の持っているものが欲しかった。

 先輩はかがみ込んできて私にキスをした。希美の男。それを思うと、気持ちよくなんてないはずの行為にかすかに恍惚をおぼえる。

「ほんと、仲がいいんだね」

 先輩は笑っていた。

 一人の男を分け合うくらい、と言いたいのだろうか。好みがそれくらい似ていると。

 私も笑い返す。

 私と希美は見た目も性格も全然違う。好みだって合わない。増島も先輩も全然好きじゃない。

 全然ちっとも、好きじゃなかった。

 

 

 先輩との浮気は、すぐに増島にバレた。

 ホテルから出て先輩と歩いているところを、増島の友人に目撃されたのだ。絵に描いたような修羅場だった。急用というのに別の男と歩いていた私を、増島は許さなかった。追求され、私もねばることはなく彼と浮気をしたと話してしまった。もう増島とも潮時だった。

「そんな女だとは思わなかった」

「……私は」

 最初からこういう女だ。だけどこれ以上増島の逆鱗を撫でることもない。

 だからただ、頭を下げた。

「ごめん」

 謝ったのに、増島は更に怒りに火を注がれたようで、顔を殴られた。信じられないくらい痛かった。

「っ」

「お前が……お前が悪いんだからな」

 増島は手を出してしまった自分を恐れるように、私を怯えたような目で見た。

 ぬるりとしたものが手に触れたと思ったら、血だった。どうやら口の端が切れてしまったらしかった。血を見て増島はさらに怖気づいたみたいだった。

「ごめん……でも、あいつって福井と付き合ってんだろ」

 増島が声を震わせる。

「最低じゃん」

 そうだね、と声には出さずに答える。

 だけど先輩が希美と付き合っていなければ、あんなことしなかった。

 希美に彼氏がいなければ、私が増島と付き合うこともそもそもなかった。そう思うと少しおかしかった。

「何笑ってんだよ。楽しいのか、友達との修羅場がそんなに」

「修羅場になんて……ならないよ」

 希美はまだ先輩が好きなのだろうか。

 あの日から、先輩からの連絡を私はすべて無視していた。大丈夫、とかまた会いたい、とか何通も来ていた。

「なんでだよ。友達の彼氏と寝たんだろ!?」

 友達の彼氏。言葉にするとなんて陳腐だろうと思う。

「私と希美のことに口を出さないで」

 それ以上の会話がもう面倒になって、私は強く言った。血が垂れて制服についてしまった。増島はそれを拭おうともしない私を、奇妙なものでも見るような目で見ていた。

 

 

 その日はもうぐったりと疲れ切っていた。

 家に帰ってすぐに寝てしまうつもりだったのに、家のそばの公園に、人が立っているのが見えた。まさかまた先輩かと思ったが、もっと小柄だ。

 希美だった。

 さすがに無視することはできない。公園に入ると、希美はすぐに駆け出してくる。薄着なので寒くないのか心配になる。

「ああ、よかった」

 希美は私の顔を見るなり抱きついてきた。ふわりとシャンプーなのか、石鹸みたいないい匂いがする。

「希美……」

「大丈夫? 痛い?」

 私の顔を覗き込んで、希美は心配そうに言った。

「……希美」

 先輩と私が会っていることを、きっと希美は勘付いているだろう。もしかしたらそれ以上の関係を持ったことだって。

 希美は何を言うのだろう。絶交だと言われるかもしれない。普通に考えて、友達に彼氏と浮気されたら誰だって許せないと思う。それこそ修羅場にだってなりかねない。

「わかってる」

 だけど希美は微笑んで言った。

「増島君と別れたんでしょ? よかった」

「なんで……」

 ついさっき別れたばかりなのに、なぜ知っているのか。予想で言っているのか? それにしても違和感があった。

 そもそも私は希美に、増島と付き合っていることを言っていない。他のどの友人にもだ。希美は、まるで知っていることが当たり前みたいな態度をしていた。

「知ってたの?」

 まったく目撃されていないという自信はなかったけれど、噂になっているとも思えなかった。バレないよう、細心の注意は払っていた。

「もちろん」

 そう言って希美は微笑んだ。

「そう……」

 言われてみると、それが当然な気もした。

「ななちゃんには似合わないもん。別れてくれて、よかった」

 希美はまったく先輩のことを口にしない。

 先輩は希美に対して、私と寝たことは隠しているだろう。さすがにそれを言うほどバカじゃないと思う。

「ずっと気にかかってたんだよ。ななちゃん、秘密にしたまま教えてくれないし、どうしようかと思った」

 それは、希美が先輩とのことを私に隠し、あまつさえ他の友人に先に教えていたからだ。

「希美だって、隠してたじゃない」

 ずっと胸の中に押し込めていた黒い気持ちが、ぼろぼろと口からこぼれていくようだった。

「私はちゃんと言ったでしょ」

「遅かったよ」

 ずっと言いたかった。どうして私が一番じゃないの、と。

「うん。ななちゃん、行動が早くてびっくりしちゃった」

 何のことを言っているのだろう。まさか、先輩は私に告白されたことを彼女に話したのか。

 ありえないことじゃないかもしれない。あの男はそれほど口が固くない。

「ななちゃんのことなら、何でも知ってるよ」

 希美はまるで私の疑問を読み取ったかのように言った。

 何を? いつから? 希美の顔を見ていたら、私がこの間先輩と寝たことだって、とうにお見通しなのだという気がした。だって、私と増島が別れたことを、当てずっぽうにしろ希美は言い当てた。別れた原因は、先輩と寝たからだ。そのことを知っていたら、自然と私と増島の関係がうまくいっていないことは想像がつく。

 希美は白いハンカチで、私の顔をぬぐう。きれいな白いそれが、あっという間に血で汚れていく。

「ハンカチ、汚れる……」

 血はなかなか落ちないだろう。ティッシュかなにかでいいのに、希美はそれで私の顔をぬぐい続けた。

「いいの、汚くないから」

 希美はうっとりとした顔をしていた。

 前にもまして、かわいくなったと、こんなときなのに私はぼんやりと思う。化粧をしているみたいだった。いつもよりしっかり目に、だけどナチュラルな化粧だ。ほのかに茶色いアイシャドウを入れている。それは彼女にとてもよく似合っていた。

 夜の公園は静かだった。虫がりーりー鳴いている。希美の家は厳しいから、あまり遅くまではいられなかったけれど、この公園でも小さい頃によく遊んだ。

 希美が持っているものは、何でも欲しかった。いつだって一緒に遊んでいた。

 希美はカバンから、かわいらしい小さなポーチを取り出した。化粧ポーチみたいだった。

「覚えてる? ななちゃん、私のコンパクトほしかったんだよね」

 ポーチの中には、ブランド物の化粧品が詰まっていた。ぱっと見ただけでも高そうな、アイシャドウや口紅やチークが並んでいる。いつのまにこんなに集めたのだろう。がちゃがちゃと化粧品が音を立てる。

「何のこと」

「変身のコンパクト」

 希美はブランド物のコンパクトを取り出して、蓋を開く。それにはもう、あの頃みたいにピカピカ光る宝石なんてついていない。玩具で遊んでいた時間はもう遠い。

 ほの白い粉をパフに取って、希美は手を伸ばした。

「ななちゃんが一番きれいだって、私、最初から知ってるよ」

 そうして私の口の端に、優しくのせていく。傷のあたりに触れられるとぴりと痛んだ。

「なにを……」

「ワンピースは? 覚えてる? ななちゃんがねぇ、いつまでも子供っぽい服を着てるのがやだったから、私、お母さんに買ってもらったって言ってワンピースを自慢したの」

 希美は丁寧に、私の頬を撫で、ファンデーションを塗っていった。

「そうしたら、私のによく似たワンピース着てくれて、嬉しかったな」

 そういえばそんなこともあったかもしれない。私はいつだって、希美の持っているものが欲しかった。

 希美の持っているものに比べると、それまでの自分の持ち物はみんな色あせて感じられるのだった。

「ななちゃんに増島は似合わないよ」

 似合うとか似合わないとか、考えたこともなかった。確かに先輩のようなわかりやすいかっこよさないけれど、いいやつだった。あんなふうに終わったのは私のせいだ。怯えたように私を見ていた彼の目を思い出す。

 もし、私がもう少し真面目に彼と向き合えていたらこんなふうには終わらなかったかもしれない。

 ちゃんと彼を見ていれば。

 私が先輩と寝たりしなければ……。

「だから、浮気してもらったの」

 私は希美の顔をまじまじと見る。何を言われたのか、一瞬よくわからなかった。

「え?」

 あの日、先輩は酔っていた。希美とうまくいっていないとも言っていた。

「何のこと」

 どうしていいかわからずに、私は曖昧に笑う。冷や汗が背中をつたっていた。

「一応言っとくけど、別に先輩に頼んだわけじゃないよ。ちょっとしたケンカ、しただけ。先輩が私に嫌気が差すように」

 間近に希美の顔がある。希美は私の顔のあちこちに丁寧に触れていく。ファンデーションの、いかにも化粧品らしい匂いがする。

 希美の指が、私の顔に触れている。触れたところから、私は崩れていってしまいそうな気がする。化粧を直してもらっているはずなのに。

「あの日ね、ななちゃんい会いに行く前に先輩としたんだ。彼がこれからななちゃんを抱くんだなぁって思ったらすごく感じちゃった」

 希美の言葉が頭に入ってこない。

 希美はそういった話題を、あけすけに口にだすような子じゃなかった。まるで目の前にいるのが、希美の外見をした知らない人間みたいに思える。

 私は確かに先輩とセックスをした。だけど先輩のことなんてちゃんと見てはいなかった。

 希美のことだけを考えていた。

「私も先輩と別れたよ」

 ずっと、彼女だけを見ていた。

「え……」

 こんな状況でも、私はその言葉にほっとしていた。

 全身から力が抜けていく。

 じゃあもういいんだろうか。

「別に最初から好きじゃないもの。もういらない」

 応えるように、希美が言う。

 先輩と別れたのか。もう希美と先輩はデートもセックスもしない。安堵感で力が抜けそうになる。

「そう……」

「嬉しい?」

 私は操られるように頷いていた。希美はとても嬉しそうだった。

「ちゃんと言って」

「うれしい……」

「ななちゃん、大好き」

 最初から、先輩も増島もどうでもよかった。疲れるばかりの日々だったけれどようやく落ち着ける。

 男の子なんていらない。デートもセックスも大して面白くはないとわかってしまった。

 私たちは最初から二人きりだった。大人も他の友人もいないところで、時間を忘れて二人でずっと遊んでいた。

 希美はポーチから口紅を取り出す。やや赤みがかった若々しいピンクは、希美の唇にあるのと同じ色のようだった。

 希美がつけていると、とびきり魅力的な色に見える。

「ねぇ、ななちゃん、次は何が欲しい?」

 ゆっくりと希美は私の唇に色を乗せていく。私の唇が、希美と同じ色に染まっていく。

 はみ出してしまったのか、私の唇の端を希美は指で拭った。うん、と言って更に希美の顔が近づく。

 増島より先輩より、ずっと柔らかい唇が触れる。

 身体の奥が震えた。私の欲しいもの。間違えない。私はこれだけは絶対に失わない。

「おそろいだね」

 そう言って希美は、見たことがないほどきれいな顔で笑った。